大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

広島地方裁判所尾道支部 昭和50年(ワ)87号 判決 1985年3月25日

目次

当事者目録

主文

事実

第一当事者の求めた裁判

一請求の趣旨

二請求の趣旨に対する答弁

第二当事者の主張

一請求原因

1 はじめに

2 骨関節結核と集団結核

(一) 結核

(1) 分類

(2) 頻度

(3) 予後

(二) 骨関節結核

(1) 病状

(2) 通常の発病病理

(3) 頻度

(4) 予後

(三) 集団結核<省略>

(1) 結核の集団発生

(2) 集団結核の事例(表一)

(3) 最近の結核状況(表二、三)

(4) 接種結核

(5) 新宿赤十字産院事件

(四) 核予防行政の歴史<省略>

(1) 序

(2) 明治、大正期

(3) 昭和期(終戦前)

(4) 昭和期(終戦後)

3 因果関係<省略>

(一) 本件患者らの骨関節結核の罹患

(二) 本件集団発生とその特徴

(1) 骨関節結核の集団発生

(2) 特徴(表四、五、六)

(3) 医療機関における接種感染の可能性

(三) 感染場所、感染経路

(1) 疫学的調査の必要性

(2) 感染場所としての奥医院

(3) 接種結核としての本件集団発生

(4) 感染源

(四) 本件で証明されるべき因果関係

(1) 疫学的因果関係論

(2) 証明の対象

4 責任<省略>

(一) 憲法二五条とその具体化としての諸法規

(1) 憲法と国民の生命・健康の保全

(2) 諸法規

(二) 反射的利益論、自由裁量論批判

(1) 反射的利益論批判

(2) 自由裁量論批判

(三) 結核予防法と結核の集団発生

(1) 序

(2) 結核の管理(表七)

(3) 結核の集団発生と結核の管理

(四) 作為義務

(1) 本件集団発生の状況(表八、九、一〇、一一)

(2) 作為義務の主体

(3) 作為義務の内容

(4) 作為義務の発生時期

(五) 不作為

(1) 序

(2) 本件集団発生における公的措置とその批判(表一二、一三)

(六) 違法性及び過失

(七) 機関委任、選任監督、費用負担

5 損害<省略>

(総論)

(一) 骨関節結核が人体に及ぼす影響

(1) 病状と治療

(2) 後遺障害

(3) 抗結核剤の副作用による後遺障害

(4) 再発の危険性

(二) 被告らの結核予防義務不履行の犯罪性(表一四)

(三) 本件被害の諸相

(1) 患者らの年齢等

(2) 身体障害の内容

(3) 財産的損失

(4) 家族被害

(5) 精神的損害

(四) 損害額の算定(包括一律請求の正当性)

(各論)

(一)〜(八三)

6 相続(表一五)

7 結論

二請求原因に対する認否<省略>

1 はじめに

2 骨関節結核と集団結核

3 因果関係

4 責任

5 損害

6 相続

三被告らの主張<省略>

1 因果関係の否定

(一) 本件患者らの骨関節結核の罹患の否定

(1) 序

(2) 菌検査(表一六)

(3) 奥医院後の医療機関による診断内容(表一七)

(4) 誤診の可能性

(5) 確定診断の不存在

(6) 未届出

(二) 本件集団発生の特徴

(三) 感染場所

(四) 感染源

(五) 接種結核

(1) ステロイド注射による発病形態

(2) 他病院での関節注射

(3) 奥医院での関節注射の不存在

(4) 注射、発病、届出の各部位の不一致(表一八)

(5) 発病間隔及び注射回数の不自然

(6) 経気道感染の可能性(表一九)

(六) 因果関係の立証

2 責任

(一) 憲法二五条と結核予防法

(1) 憲法二五条の権利

(2) 結核予防法上の義務

(二) 責任否定の論拠

(1) 反射的利益論

(2) 自由裁量論

(三) 法的作為義務の不存在

(1) 前提事実(表二〇)

(2) 知事、保健所長の各権限等

(3) 作為義務の内容及び発生時期

(四) 不作為の不存在

(1) 序

(2) 本件集団発生における一連の公的措置(表二一)

(3) 前記公的措置の妥当性

(五) 違法性及び過失の不存在

3 損害総論

(一) 包括一律請求の不当性

(二) 原告らの請求を慰謝料請求と解して

(三) 慰謝料算定に考慮すべきでない事情

(1) 加害者の地位・身分

(2) 加害者の財産状態

(3) 不作為の犯罪性

(四) 特に考慮されるべき事情

(1) ステロイド注射の副作用と蓋然性の立証等

(2) 既往歴、ことに関節リウマチの予後と割合的因果関係

(3) 特別事情による損害と予見可能性

(4) 年齢

(5) 障害の部位と被害の関係

(6) 障害の程度と立証の不十分

(7) 手術の有無・種類・内容及び後遺症の程度

(8) 本件患者らの治療怠慢と過責

(9) 被告県の事後活動と見舞金の支給等

(五) 遅延損害金の起算点

(1) 慰謝料

(2) 弁護士費用

四被告らの主張に対する反論<省略>

1 因果関係の否定

(一) 本件患者らの骨関節結核の罹患の否定

(1) 序

(2) 菌検査(表二二)

(3) 奥医院後の医療機関による診断内容

(4) 誤診の可能性

(5) 確定診断の不存在

(6) 未届出

(二) 本件集団発生の特徴

(三) 感染場所

(四) 感染源

(五) 接種結核

(1) ステロイド注射による発病形態

(2) 他病院での関節注射

(3) 奥医院での関節注射の不存在

(4) 注射、発病、届出の各部位の不一致

(5) 発病間隔及び注射回数の不自然

(6) 経気道感染の可能性

(六) 因果関係の立証

2 責任

(一) 憲法二五条と結核予防法

(二) 責任否定の論拠

(1) 反射的利益論

(2) 自由裁量論

(三) 法的作為義務の不存在

(1) 前提事実(表二三)

(2) 知事、保健所長の各権限等

(3) 作為義務の内容及び発生時期

(四) 不作為の不存在

(1) 序

(2) 本件集団発生における一連の公的措置

(3) 前記公的措置の妥当性

(五) 違法性及び過失の不存在

3 損害総論

第三証拠関係<省略>

理由

第一 書証の成立等<省略>

第二 事件

一 骨関節結核と集団結核

1 結核の分類、頻度、予後

2 骨関節結核の病状、発病病理等

3 集団結核の意義、事例等

4 結核予防行政の歴史

二 本件患者らの骨関節結核の罹患

1 医療機関による結核診断等

(二) 病状及び治療の経過

(1)〜(83)

(二) 医療機関による結核診断

(三) 結核登録、公費負担の状況

(四) 見舞金等支給の状況

2 骨関節結核の診断法と問題点

(一) 骨関節結核の診断法

(1) 「片山整形外科学」の診断法<省略>

(2) 「臨床診断と治療一九七六」の診断法<省略>

(3) 大谷清医師の診断法<省略>

(4) まとめ

(二) 骨関節結核診断上の問題点

(1) 菌検査とその限界

(2) 奥医院後の非結核診断の価値

(3) 類似疾患との鑑別

(4) 混合感染の可否

(5) 確定診断の不存在

3 本件患者らの骨関節結核の罹患

(一) とくに争いのある患者らの罹患

(1)〜(57)

(二) その余の患者らの罹患<省略>

(1)〜(26)

三 骨関節結核の多発状況

1 本件患者らの結核の新規登録状況(表二四、二五)

2 骨関節結核の新規登録患者数の増加(表二六、二七、二八、二九)

3 結核類別間の構成比率

(一) 通常の比率(表三〇)

(二) 因島市、瀬戸田町の比率

(1) 通常の比率との比較(表三一、三二)

(2) 過去の比率との比較<省略>

(3) まとめ

4 結核罹患率

(一) 全国の罹患率(表三三)

(二) 因島市の罹患率(表三四)

(三) 瀬戸田町の罹患率(表三五)

5 脊椎カリエスとそれ以外の骨関節結核との発生頻度割合<省略>

(一) 通常の発生頻度割合

(二) 因島市、瀬戸田町の発生頻度割合

6 まとめ

四 本件集団発生の原因

1 通常の発病病理からみた疑問

2 本件患者らの共通点

(一) 奥医院通院

(二) 奥医院通院以後の発病

(三) 関節注射部位への発病

(四) 院内感染の疑い

3 奥医院における問題点

(一) 副腎皮質ステロイド剤の使用

(二) 無菌操作、消毒等の不完全

(三) 結核患者の存在

(四) 感染症の誘発等の可能性

4 接種感染の可能性<省略>

(一) 接種感染の事例

(1) 道場村事件

(2) 岩ケ崎町事件

(3) 三重中耳結核事件

(4) 和歌山中耳結核事件

(5) 佐原関節結核事件

(二) 事例と本件との比較

(三) 発病間隔、注射回数の問題<省略>

(四) 既往症、合併症との関係<省略>

5 まとめ

五 本件集団発生下及びその前後の経緯

1 結核の新規登録患者数の月別の推移

(一) 因島市の月別の推移(表三六)

(二) 瀬戸田町の月別の推移(表三七)

2 因島保健所長の対応及びその周辺

(一) 結核登録、医療費の公的負担、保健婦の家庭訪問指導(表三八、三九)<省略>

(二) 骨関節結核の増加の認知

(三) 健康診断(昭和四五年)

(四) 結核登録者に関する定期報告(昭和四五年分)

(五) 結核患者分布状況表の作成(表四〇<省略>)

(六) 健康診断(昭和四六年)

(七) 奥医院に関する風評

(八) 寺上予防課長への相談

(九) 結核登録者に関する定期報告(昭和四六年分)

3 広島県衛生部の関与及びその周辺

(一) 新聞報道等

(二) 識者からの意見聴取(表四一、四二、四三<省略>)

(三) 特別住民健康診断

(四) 骨関節結核多発の終息

(五) 対策会議(第一回)

(六) 県知事等に対する陳情<省略>

(七) 対策会議(第二回)<省略>

(八) 実態調査

(九) 対策会議(第三回)<省略>

(一〇) 見舞金等の支給等

第三 責任

一 はじめに

二 結核予防行政と国家賠償

1 結核の集団発生下及びその前後の作為義務

(一) 結核及びその集団発生による損害の重大性

(二) 結核予防法二条の義務

(1) 結核予防関係法規

(2) 結核予防法二条の趣旨

(三) 衛生行政機関の組織、任務、能力

(四) 作為義務の発生

2 本件集団発生下及びその前後の作為義務

(一) 作為義務の主体

(二) 作為義務の発生の有無

(1) 危険の存否等

(2) 危険の知得の可否

(イ) 患者数の異常性の認知

(ロ) 対応措置の指針

(ハ) 永田所長の対応措置の当否

(ニ) 広島県衛生部関与下の対応措置の当否

(ホ) とるべき対応措置

(ヘ) まとめ

(3) 他事例と本件との比較<省略>

(イ) 新宿赤十字産院事件との比較

(ロ) 佐原関節結核事件との比較

(4) まとめ

三 医療行政と国家賠償

四 まとめ

第四 結論

(別紙)

当事者目録

請求金額目録<省略>

一覧表一「結核登録及び公費負担状況」

二「見舞金等支給状況」

三「医療機関による結核診断」

四「主要症状」<省略>

五「保健婦家庭訪問指導実施状況その一」<省略>

六「保健婦家庭訪問指導実施状況その二」<省略>

七「保健婦家庭訪問指導実施状況その三」<省略>

八「関係医療機関」<省略>

九「奥医院通院治療及び発病時期・部位別状況」

図表Ⅰ「年別実施義務者別健康診断の患者発見率」<省略>

Ⅱ「因島市における月別患者届出数の推移」<省略>

Ⅲ「因島市における年別結核患者数(呼吸器系・その他)の推移」<省略>

Ⅳ「年別活動性分類別罹患率の推移」<省略>

Ⅴ「因島市における肺外結核の罹患率の推移」<省略>

Ⅵ「因島市における肺外結核の有病率の推移」<省略>

Ⅶ「因島市における年別結核患者数(全結核・骨関節結核以外・骨関節結核)の推移」<省略>

資料1「調査実施要領」<省略>

2「骨関節結核患者(登録患者)調査票」<省略>

3「結核健康相談票」<省略>

奥医院平面図<省略>

原告

花岡峰義

外一四五名

右原告ら訴訟代理人

高橋禎一

外山佳昌

阿左美信義

原田香留夫

山田慶昭

高村是懿

相良勝美

恵木尚

尾迫邦雄

服部融憲

堀内信夫

緒方俊平

西本克命

馬渕顕

国政道明

島方時夫

加藤寛

秦清

坂本皖哉

井上正信

佐々木猛也

右原告ら訴訟復代理人

二國則昭

阿波弘夫

長谷川裕

中尾正士

藤木賞之

植田忠司

神原博道

中島英夫

山田延廣

石口俊一

小笠豊

臼田耕造

木山潔

大国和江

島崎正幸

被告

右代表者法務大臣

嶋崎均

被告

広島県

右代表者知事

竹下虎之助

右被告ら訴訟代理人

幸野國夫

右被告ら指定代理人

木村要

外三名

右被告広島県指定代理人

太田禮介

外二名

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は、原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは各自原告らに対し、別紙請求金額目録のとおりの各金員及びこれらに対する被告国については昭和五〇年九月二〇日から、被告広島県(以下「被告県」ともいう。)については同月一九日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は、被告らの負担とする。

3  仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は、原告らの負担とする。

3  担保を条件とする仮執行免脱の宣言

第二当事者の主張

一請求原因

1  はじめに

骨関節結核は、結核の一種であり、結核菌に感染することによつて骨関節部に発病し、患部に重大な障害を生ずる疾病である。骨関節結核は感染から発病までに特殊な経過をたどるために、罹患率は極めて低く、我が国における年間の発病者数は人口一〇万人に対比すると、一、二人程度である。

広島県因島市は、瀬戸内海に浮かぶ因島を中心として人口約四万一〇〇〇人を擁し、同県豊田郡瀬戸田町は、因島に隣接する生口島を中心として人口約一万二〇〇〇人を擁する平和な地域である。この地域に、昭和四五年から同四六年にかけて、突如骨関節結核患者が多数発生し、その患者数は合計九七人に及んだ。

原告ら一四六名は、この異常な多発状況のなかで、骨関節結核に罹患した因島市及び瀬戸田町の住民八三名のうちの患者本人六五名及び死亡者一八名の相続人八一名である。

被告らは、この骨関節結核の多発に対し、その予防及びまん延の防止のために有効適切な措置を講ずべき作為義務があるのに、これを怠つた不作為により、多数の住民を骨関節結核に罹患させ、同患者らに損害を被らせた。

本訴において、原告らは被告らに対し、国家賠償法上の責任を問うものである。

2  骨関節結核と集団結核

(一) 結核

(1) 分類

結核は、結節を形成させる結核菌によつて発生する病変であり、結核菌の感染によつて起こる伝染病である。その感染源は、痰の中に結核菌を出している結核患者である。

結核は、身体のほとんどあらゆる臓器に現われるが、発病部位別に分類すると、主に次のとおりである。

すなわち、肺結核・気管支結核、喉頭結核、結核胸膜炎・膿胸・胸膜結核、腸結核・結核性腹膜炎、粟粒結核・結核性髄膜炎、リンパ節結核、骨関節結核、秘尿器結核、性器結核、皮膚結核、中耳結核・鼻結核・咽頭結核、眼結核、結核性痔瘻である。

また、結核は、国際的には次のように分類されている。

すなわち、大きくは呼吸器系の結核とその他の結核(肺外結核)の二つに分けられる。そのうち、呼吸器系の結核は、職業的呼吸器結核(じん肺など)、肺結核、胸膜結核、症状を伴う結核初期変化群、気管支リンパ節結核、エックス線所見による活動性呼吸器結核、その他の呼吸器系結核、部位不明の結核に分けられている。他方、その他の結核(肺外結核)は、髄膜及び中枢神経系の結核、腸・腹膜及び腸間膜リンパ節の結核、骨及び関節の結核、皮膚及び皮下疎性結合組織の結核、リンパ系の結核、性尿器系の結核、副腎の結核、その他の臓器・眼・中耳等の結核、播種結核に分けられ、さらに、骨及び関節の結核は、脊椎結核(脊椎カリエス)、股結核、膝結核等に、性尿器系の結核は、性器の結核、泌尿器の結核等にそれぞれ分けられている。

(2) 頻度

結核の死亡率は、昭和二二年の統計では人口一〇万対比一八七であつたが、その後年々減少し、昭和四五年は10万対比15.5となつた。しかし、昭和四五年には一七万八九四〇人の新登録結核患者が発生しており(実際には発病していても発見漏れがあるので、暗数を含めればさらに大きい。)、一万五八九九人の結核死亡者が出ている(結核患者でありながら死因として他の疾病名を付けられることが多いので、実際の数はもつと多い)。新たに結核となつても、数年の治療期間を要するため、横断的にみた結核患者の実数は、同年では一〇八万人に達している(昭和四三年の結核実態調査では一五三万人)。結核の死亡率が低くなつたとはいえ、その患者数をみると、結核の脅威は依然として恐るべきものがある。

後述するとおり、我が国では、結核は不治の病とされ、その死亡率は長い間国民の死亡原因の首位を占めてきた。前記のとおり結核の死亡率が低下したとはいえ、それは結核対策の行き届いたいわゆる結核先進国と比べると一〇倍の高さであり、昭和四五年の患者数が一〇八万人に達したということからすれば、結核は過去の疾病となつたとは到底言えない。新しい患者の発生は感染源である感染性の患者が社会に存在することにほかならないから、我が国の結核予防対策はいまだに重大な使命を担わされている。

(3) 予後

結核は慢性伝染病で、主として呼吸器を侵す。したがつて、保育所や学校など未感染者の多い所では集団発生のおそれがある。結核は、感染しても直ちに発病するわけではないが、体の抵抗力が落ちると発病することがあり、一生結核になるおそれが残る。また、いつたん治つても再発するおそれがある。病変があつても病識のないことが少なくなく、発見が遅れて重大な障害を残しやすい。

初期のものは化学療法のみによつて治癒する。しかし、手遅れになると、患者にとつて重大な結果をもたらすことになる。

また、結核の治療のために投与される抗結核剤については、副作用の問題がある。抗結核剤の副作用としてよくみられるものに神経障害がある。たとえば、SM(ストレプトマイシン)・KM(カナマイシン)の聴力障害、EB(エタンブトール)の視力障害、INH(インニコチン酸ヒドラジド)の末梢神経炎、CS(サイクロセリン)のけいれん並びに精神障害などである。そのほか、胃腸障害・肝機能障害・腎障害などもみられる。

このような副作用はあつても、生命には換えられないので、不可避的に抗結核剤の後遺障害が付随せざるを得ない。結核が治癒した後にも、このような副作用後遺症で長く苦しむ人や、長い療養生活で「療養ボケ」といつた状態になり、社会復帰がなかなかできない人など、結核による被害は今日においても無視できない。

(二) 骨関節結核

(1) 病状

「骨関節結核」は、骨及び関節部に発病する結核である。

「骨結核」は、通常血管の豊富な骨随の部分に生じる。病変を生じた部分は乾酪性の変化に陥り、空洞化し、周囲の骨質が粗になる。変化が拡大して骨質に及ぶと冷膿瘍を生じ、ついには流注膿瘍・瘻孔を形成する。

「関節結核」は、初め水腫の形から結核性肉芽組織を生じて関節が腫大する。そして、関節腔に肉芽組織が満ちると関節は著しく腫大し、さらに進行すると冷膿瘍を生じ、ついには流注膿瘍・瘻孔を形成する。

骨関節結核は、発熱が化膿性関節炎ほど著しくないが、自発痛が軽い割合には運動痛が強く、骨の萎縮が進行し、関節軟骨の破壊が顕著で、さらに進行すると骨の破壊に至る。

(2) 通常の発病病理

自然に発病する場合の骨関節結核の発病病理は、空気と一緒に結核菌が肺に吸い込まれて侵入することに始まる。肺の中に入つた結核菌は、肺の一部に定着し、増殖し、米粒か小豆大位の小さな病変を作る。これを「初感原発巣」という。

初感原発巣から直接病変が拡大していくこともないわけではないが、通常は初感原発巣が形成されると同時に、あるいは少し遅れて結核菌の一部はリンパ液の流れに乗つて肺門のリンパ腺に運ばれ、そこに結核性の病変を形成する。この二つの病変をあわせて「結核の初期変化群」といい、この時期の結核症を「第一次結核症」という。

通常は右のリンパ腺の病巣は二つか三つできて治癒してしまう。感染を受けた人の八〇パーセント位は治癒し、残りの二〇パーセント位において、結核菌は肺のリンパの流れに沿つて運ばれ、さらに肺動脈を介して肺に運ばれ、大部分の結核菌は肺に定着する。肺を通過したものは大動脈を経て全身に運ばれる。この時期を「第二次結核症」という。菌が定着しやすいのは、血液のたくさん行く組織、毛細血管の発達した組織である。結核は全身のどの部分にも発症するが、骨関節結核の場合でいうと、結核菌は骨の中では赤色随といつて血液を作る骨髄がある脊椎や手足の長管骨の末端部に定着するのが多い。

骨に定着した結核菌は小さな病変を作り、その中の一部のものが発展して骨結核となる。骨結核がさらに病状を発展して関節内に破れ入ると関節結核となる。結核菌が直接関節軟部に定着して関節結核を生ずることもあるが、極めて稀有であり、むしろ、大部分の骨関節結核は骨の方から関節の方へと発展していく経過をたどる。

(3) 頻度

骨関節結核は、前項のとおり、通常結核菌の感染を受けてから二重三重あるいは四重のろ過を経たような形で初めて特定の骨関節部位に発症するわけであるから、復数の骨関節部位に発症する頻度は非常に低く、また、特定の集団に骨関節結核だけが多発するといつたようなことはまずないと言つてよい。

一般的に、肺外結核の発病例は全結核中の一〇パーセント程度で、骨関節結核のそれはその肺外結核中の一〇パーセント程度であり、結局、骨関節結核が全結核中に占める割合は一パーセント程度であると言われている。

国立療養所村山病院に昭和三〇年から同四九年まで入院した骨関節結核患者一六九四例により、発病部位別に統計をとると、骨関節結核の中では、脊椎カリエスが最も多く、その六六パーセントを占め、次が股関節一四パーセント、以下、仙腸一〇パーセント、膝関節五パーセント、足関節1.4パーセント、肋骨1.3パーセント、大転子0.8パーセント、恥骨0.7パーセント、肩関節0.4パーセント、肘関節0.4パーセント、手関節0.2パーセント、指骨0.1パーセント、坐骨0.1パーセントという割合である。そして、右骨関節結核と肺結核との合併例も九七六例、すなわち57.6パーセントの高率に及んでいる。

(4) 予後

骨関節結核の病状が悪化すると、これに対する化学療法の治療効果の限界は低いので、多くの場合、化学療法と同時に整形外科的治療を要する。手術方法としては、従来行なわれてきた関節固定術のほかに関節切除術が発達してきたが、それでも罹患肢の短縮あるいは関節機能の低下・喪失に至る場合も多い。

なお、「関節固定術」は、関節病巣部分を全部除去して関節を全く動かなくさせる手術であり、「滑膜切除術」は、病巣が滑液膜(関節の袋)だけに限局している場合に骨を削らず滑膜だけを取り出す手術である。

骨関節結核の場合、その治療は肺結核と比較して一般に非常に長くかかる。それは病変の治癒・再成に長期間を要し、運動機能の回復に機能訓練を必要とし、再発のおそれがあるため長期間化学療法を絶やすことができないことによる。

したがつて、患者自身や家族の経済的負担はもちろん、社会的損失も大きい。長期間の療養は精神的、心理的障害を必然的に伴い、結核回復者の社会復帰は、他の疾患に比較にならない複雑な問題を発生させる。ことに身体上の機能障害を残すことが多い骨関節結核においては、患者やその家族に対して致命的打撃を与えることが少なくない。<以下、省略>

理由

第一  書証の成立等<省略>

第二  事件

一  骨関節結核と集団結核

1  結核の分類、頻度、予後

請求原因2(一)(1)ないし(3)は、いずれも当事者間に争いがない。

2  骨関節結核の病状、発病病理等

請求原因2(二)(1)ないし(4)は、いずれも当事者間に争いがない。

3  集団結核の意義、事例等

請求原因2(三)(1)、(2)のうち表一記載の各事例が文献により報告されていること、(3)、(4)のうち集団結核の各事例が報告されていること、(5)のうち新宿赤十字産院事件の概要が原告ら主張のとおりであることは、いずれも当事者間に争いがない。

4  結核予防行政の歴史

請求原因2(四)(1)ないし(4)のような結核予防行政の歴史観があること(ただし、結核予防法五条の解釈論を除く。)は、当事者間に争いがない。

二  本件患者らの骨関節結核の罹患

1  医療機関による結核診断等

(一) 病状及び治療の経過

関係各証拠によれば、本件患者らがリウマチ・神経痛等の診断の下に奥医院に通院して治療を受けたこと、本件患者らの右通院中、及びその前後における病状及び治療の経過については、左の(1)ないし(83)のとおり認められ<る。>なお、被告らは、本件患者らのうちの一部の者について奥医院通院の事実を争うが、この点については後記四2(一)において詳細に検討するとおりである。

(1) 原告花岡峰義

右原告が奥医院に通院し、注射を打たれたこと、因島病院に入院し、手術を受けたことは当事者間に争いがなく、<証拠>を総合すれば、右原告は、昭和四四年一一月から同四五年一〇月まで奥医院に約四〇回以上通院し、両膝関節リウマチ・右足関節リウマチ等の診断の下に、投薬・皮下注射・静脈注射のほか、多数回にわたる両膝・右足関節に対するケナコルトAの関節注射を受けたこと、関節注射は一週間経過しなければ打つてもらえず、右注射を受けると痛みは引くが、五、六日すると前と同様の痛みに戻る状態で、注射後の痛みの消失期間は通院するに従つて徐々に短縮していつたこと、請求原因5(各論)(一)(2)(ハ)の事実が認められ<る。>

(47) 原告岡野トシエ

<証拠>を総合すれば、右原告は、昭和四四年二月末ころから歩行時に右股関節に痛みを覚えるようになり、知人の勧めもあつて、同年八月二〇日ころから奥医院に通院し始め、その後股関節の神経痛との診断の下に同四五年一〇月ころまで一か月に三回位の割合で同医院に通院して、その度ごとに内股に注射を打つ治療を受けたこと、昭和四六年春ころから奥医院へ通院した患者は結核になるという噂が広がつたため、不安になつて、岡山大学付属病院でエックス線等の検査を受けたところ、変形性股関節症と診断され、大したことはないと言われ、尾道総合病院でも同様の検査の結果大したことはないと言われたこと、さらに同年四月三原赤十字病院で玉井医師の診察を受け、その指示に基づいて、同医師の兼務していた因島病院でエックス線や血沈の検査を受けたが、その結果、同医師から、「奥医院通院患者の中に大勢骨関節結核患者が出ているので、あなたの場合もそうではないかと思うが、はつきりしたことは分からない。骨関節結核である可能性は五割ないし三割くらいあると思う。ともかく結核性のものとして治療を受けておいた方が間違いなかろう。」という趣旨の説明をされ、結核性のものとは断定されなかつたこと、そこで、右原告は、同月一七日から同年一二月四日まで因島病院に通院して投薬や腕、腎部に注射を打つ治療を受けたが、その後同五〇年五月ころまでの間は医療機関において特段の治療を受けてはいなかつたこと、ところが、同月ころ右内股に直径約五センチメートルのピンポン玉のような腫物ができ内臓が下に下がつてきたような感じがして歩行に不自由を覚えるようになつたため、あちこちの医師に診察してもらつたところ、ある医師からは外脱腸、他の医師からは卵巣などと言われ、診断がまちまちであつたこと、そのため、すでに開業医になつていた前記玉井医師の再度の診察を受けたところ、直ちに手術するよう勧められたため、同年八月一八日から同五一年一二月二五日まで尾道総合病院に入院し、その間右腫物切除の手術等の治療を受けたこと、なお、右原告は、奥医院に通院する以前には結核関係の疾患を患つたことはなかつたことが認められ<る。>

(二) 医療機関による結核診断

しかして、前記(一)で認定したところによれば、本件患者らは、別紙一覧表三「医療機関による結核診断」のとおり、奥医院通院後それぞれ同表「医療機関名」欄の病院または医院において「診断時期」欄の時期に「診断名」欄の骨関節結核等の結核診断を受けたものであることが認められる。

(三) 結核登録、公費負担の状況

<証拠>によれば、本件患者らについて、別紙一覧表一「結核登録及び公費負担状況」のとおり、結核の届出・登録及び医療費の公費による負担がなされたこと(なお、原告田中智子・亡小倉國太郎・同小倉コサダ・同野坂トシコについては、医療費の公費負担申請はなされておらず、原告松葉タカエについては、結核の届出・登録も医療費の公費負担申請もなされていない。)が認められる。

(四) 見舞金等支給の状況

<証拠>によれば、被告県は、昭和四八年に、「因島市等の骨関節結核患者に対する見舞金等交付要領」及び「因島市等の骨関節結核患者に対する医療費支給要綱」を定め、因島市及び豊田郡瀬戸田町で多発した骨関節結核の後遺障害をもち、昭和四五年一月一日から同四七年一二月三一日までの間に右地域に居住し、結核登録票に登録されていた患者及びその遺族を対象者として、見舞金又は弔慰金を交付するとともに、右患者で医療を受けている者に対し医療費を支給することとしたこと、そして、右行政措置に基づき、本件患者ら(原告松葉タカエを含む。)について、別紙一覧表二「見舞金等支給状況」のとおり、見舞金若しくは弔慰金の交付又は医療費の支給がなされたことが認められる。

2  骨関節結核の診断法と問題点

本件患者らは、前記1(二)のとおり、いずれも医療機関において骨関節結核の診断を受け、しかも、同(三)、(四)のとおり、それぞれ結核登録、医療費の公費負担、さらに見舞金等の支給を受けたものであるが、被告らは、被告らの主張1(一)のとおり、菌検査結果、奥医院後の医療機関による診断内容、誤診の可能性等種々の疑問点を理由に、本件患者らの骨関節結核の罹患を争うので、以下、(一)、(二)において総括的に、3において個別的に検討する。

(一) 骨関節結核の診断法

(1) 「片山整形外科学」の診断法<省略>

(2) 「臨床診断と治療一九七六」の診断法<省略>

(3) 大谷清医師の診断法<省略>

(4) まとめ

以上の認定事実によると、臨床医による骨関節結核の診断は、とくに初期の段階においてはかなり困難なものであるが、その正しい診断法は、臨床所見・臨床経過観察を中心とし、エックス線所見・菌検査結果・病理組織学的所見・血液所見等をあわせ考慮したうえでの総合判断によるべきであり、これらのうちの一部に着目して直ちに骨関節結核を断定し、あるいはこれを否定することは危険であるというべきである。

たとえば、菌検査及び病理組織学的検査の結果が陽性であれば、結核診断は確定するが、検体や標本の採取の仕方や状態如何によつては十分な結果が得られないことがあり、これが陰性であるからといつて、直ちに結核を否定できるものでもない。また、結核反応も、本来結核患者であれば陽性に出るはずであるが、抗結核剤の使用によつて反応が弱くなることがあり、時には局所に反応の出ないこともあるから、これが陰性の場合でも直ちに結核を否定し得ない。

さらに、エックス線所見上、通常は骨関節結核では骨萎縮がみられるが、いわゆる二次感染(ちなみに、二次感染とは、ある病原菌による感染があつて、体の抵抗力が弱まり、さらに他の細菌の感染を受けることをいうとされているので、これと区別するため、結核菌が原発巣から血行性に骨関節等に感染することを、以下「いわゆる二次感染」という。)においても、骨液膜型の関節結核では、骨から関節へ病巣が破れ入るという骨型の経過をとらないため、病勢がやや進行するまで骨萎縮は現われないので、骨萎縮がないことをもつて、直ちに結核を否定し得ない。

(二) 骨関節結核診断上の問題点

(1) 菌検査とその限界

右事実からも明らかなように、結核菌の厳密な意味での証明は、場合によつて甚だ困難である。

したがつて、被告らが菌検査結果のマイナス・不明・判定不能、未検査の事実のみによつて、直ちに結核を否定しようとするのであれば、一般論として明らかに不当である。菌検査結果は診断のための一資料にすぎず、他の所見との関連において評価されなければならない。また、<証拠>によれば、喀痰は肺結核の診断のための基本的な検体であることが認められ、喀痰による菌検査結果のマイナスは、直ちに骨関節結核の否定の根拠とはならないものというべきである。

(2) 奥医院後の非結核診断の価値

被告らは、本件患者らのうち二四名について、奥医院通院後から最終的に結核診断を下されるまでの間に通院した医療機関において、リウマチ・神経痛・化膿性関節炎等の診断を受けたこと等を理由に、最終的な結核診断を否定しようとする(被告らの主張1(一)(3))。

しかしながら、一般論としては、前記(一)のとおり骨関節結核は早期の診断が難しく、病勢が進行し、経過観察が長期にわたるほど診断がつきやすくなるものであり、右二四名の患者らについて時期的に前に診察した医師が後に診察した医師よりも臨床医として優れていたとの保証もない。事実、右二四名の患者らのうち八名(原告花岡峰義・同大出茂則・同岡野一子・同岡野五郎・同岡野チヨコ・亡竹田高一・原告村上政一・同打明とも江)については、後記3(一)(1)、(3)、(20)、(22)、(25)、(35)、(37)、(48)のように、後に診療した各医療機関において菌検査結果は陽性となつており、三名(原告岡野恵美子・同岡野万亀子・同森アイコ)については、後記3(一)(21)、(26)、(43)のように、後に病理組織学的所見として結核像が証明されていることが認められ、これらの事実に徴すると、右合計一一名については前に診療した医療機関の診断は誤りであつたことが明らかである。

(3) 類似疾患との鑑別

骨関節結核に類似する疾患には、化膿菌による化膿性関節炎・変形性関節症・多発性関節リウマチ等があること、骨関節結核とこれら類似疾患との類似点・相異点については、前記(一)(3)において大谷清医師の述べるとおりである。そして、骨関節結核は発病例も少なくなつてきており、類似疾患との鑑別が相当困難であり、とくに早期の鑑別はなおさらであることも同医師の述べるところであり、本件患者らのうち三六名について診察し診断した玉井国昭医師も同様に証言している。

しかしながら、類症鑑別が困難であるからといつて、直ちに本件患者らに対する骨関節結核の診断が誤診あるいはその可能性があると短絡的に考えるわけにはいかない。むしろ、一般論から言えば、発病例が少なく類症鑑別の困難な疾患を疑つた医師による臨床経過観察や診断は、より慎重になされる傾向があるとも考え得る。

(4) 混合感染の可否

被告らは、被告らの主張1(一)(4)(ロ)のとおり化膿菌のうちの大部分を占める黄色ブドウ球菌は結核菌と比べ非常に頑固な強い菌であり、両者が一緒に患部に入つた場合には前者が勝つて化膿性関節炎になる率が高い旨主張し、同(ハ)(c)のとおり原告村上ヤスコの骨関節結核罹患を争う根拠として、患部からブドウ球菌が検出された事実を主張して、混合感染を否定するかのようである。

以上のような各文献の記載、岩崎証人の証言、三重中耳結核事件の報告例のほか、前記大谷証人の証言につき同証人自身臨床家としての見解を述べたにすぎず細菌学は専門外である旨自認していること等に照らすと、化膿菌の方が結核菌よりも非常に頑固で強い菌であるとは直ちに認め難く、他にこれを認めるに足りる証拠もない。むしろ、右証拠関係からすると、結核菌と化膿菌の混合感染による共生は十分あり得るものというべきである。たとえば、<証拠>によれば、本件患者らのうちの原告岡野一子については、患部から結核菌とともに化膿菌であるブドウ球菌が検出されていることが認められ、この事実から混合感染の存在が推認できる。

してみると、結核性を疑つたものの、患部から結核菌は検出されず化膿菌が検出されたような場合でも、直ちに結核性を否定し得ないものというべく、このような事例においては他の所見との関連において総合的な判断がなされなければならない。

(5) 確定診断の不存在

本件患者らの骨関節結核の罹患の事実を証明するために提出された診断書のうちの一部には、たとえば、<証拠>によれば、「結核性右膝関節炎疑い」とか、「左膝化膿性関節炎(結核性?)」とかの記載が存することが認められる。

しかしながら、臨床診断というものは、本来、患者の病的実態について臨床所見や検査成績等を総合し推測して判断するものであり、生体の複雑さ、変化の動態性のために確定が困難なものである。骨関節結核の場合、前記のとおり、結核菌や結核像が検出されれば診断は確定するが、その検出がなされないときは、種々の所見や検査結果等に基づき総合判断して診断するほかなく、場合によつては診断結果が不確定なものとなることは避けられない道理である。このことは、決定的な診断資料の調査・収集ができない場合における臨床診断の限界あるいは宿命ともいうべきものであつて、この場合は診断は相当程度の蓋然性によらざるを得ない。

したがつて、診断書に書かれた診断病名に付加して「疑い」等の記載がある場合には、これがない場合との間に微妙な差異が存し、当該疾患の蓋然性の程度がいささか低いとはいえても、これを否定する意味合いをもつものとは到底考えられない。整形外科医であるならば、骨関節結核に類似する疾患のあることは百も承知しており、それがあえて骨関節結核の「疑い」ありとする以上、他の類似痴患であるよりも骨関節結核である蓋然性が高いと判断したにほかならないものと考えるべきである。してみれば、診断病名に付加して「疑い」等の記載があるとしても、これも整形外科医による骨関節結核の「診断」であることに変わりはないというべきである。

3  本件患者らの骨関節結核の罹患

そこで、本件患者らが真に骨関節結核に罹患したか否かについて、被告らが具体的な理由を挙げてとくに争つている患者らとその余の患者らとに分けて、以下、個別的に検討する。

(一) とくに争いのある患者らの罹患

(1) 原告花岡峰義

被告らは、右原告について、中郷医院で神経痛と診断されたことを指摘し、骨関節結核の罹患を争う。右指摘の事実は、前記1(一)(1)認定のとおりである。

しかしながら、前記1(一)(1)認定のとおり、右原告は、右医院で右診断を受けた後、昭和四六年三月末ころ因島病院において検査の結果左膝関節結核の疑いありと診断されて同病院に入院したものであり、<証拠>によれば、右原告は、右入院直後の同年四月二日同病院において左膝関節滑液膜の病理組織学的検査により結核菌が検出されており、血清反応もRAマイナス、CRPマイナス、ASLO一六六であることが認められる。

これらの事実と、前記1(一)(1)認定の病状及び治療の経過、同(三)認定の結核登録、公費負担の事実、前記2(一)の骨関節結核の診断法、同(二)(2)の奥医院後の非結核診断の価値についての説示等を総合すると、右原告は、左膝関節結核に罹患したものと認められ、被告らの右指摘事実によつては右認定を左右するに足りず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

(31) 原告岡野トシエ

被告らは、右原告について、昭和四七年一一月の喀痰の菌検査(塗抹)結果がマイナスであり、岡山大学付属病院・尾道総合病院でいずれも変形性関節症と診断され、因島病院においても、結核性とは断定されず、その可能性は三分くらいとの診断を受け、当初痛みもなかつた旨指摘し、骨関節結核の罹患を争う。

確かに、<証拠>によれば、右原告について、昭和四七年一一月二四日喀痰の塗抹検査結果がマイナスであつたことが認められる。さらに、前記1(一)(47)認定のとおり、右原告は、岡山大学付属病院で検査の結果変形性股関節症と診断されており、因島病院においても、玉井医師から、「奥医院通院患者の中に大勢骨関節結核患者が出ているので、あなたの場合もそうではないかと思うが、はつきりしたことは分からない。骨関節結核である可能性は五割ないし三割くらいあると思う。」などと言われ、結核性とは断定されていないこと、そのほか、右原告は、他の本件患者らの病状が奥医院通院以後悪化の一途をたどつているのに、昭和四六年一二月四日ころ因島病院への通院をやめてから同五〇年五月ころ右内股にピンポン玉のような腫物ができるまで医療機関において特段の治療を受けていなかつたうえ、右腫物についても外脱腸、卵巣などと医師の診断がまちまちであつたことが認められる。

<証拠>によれば、因島病院医師石原貫一作成の右原告に関する診断書には、病名として「右股関節結核」と記載されているが、石原医師は右原告を直接診断した玉井医師とは別の医師であり、右診断書は右原告が医療機関において特段の治療を受けていなかつた昭和四八年四月二七日付のものであることが認められ、これによると、石原医師は、玉井医師ら作成のカルテに基づいて右診断書を作成したものと推認される。

さらに、<証拠>によれば、因島病院分の患者一覧表には、右原告の病名として「右股関節結核」、その診断の根拠として「臨床経過及び臨床所見」と記載されているが、手術名欄には「一応結核を疑い経過観察、保存的治療を行う」と記載され、他の患者らについての記載には見当たらない極めて慎重な表現がとられていることが認められる。

なお、<証拠>によれば、右原告について関節裂の狭小が存し、RAマイナス、ASLO五〇であることが認められ、前記1(三)認定のとおり、右原告は、昭和四六年四月二一日結核登録されたが、その際の届出病名は右股関節結核、届出医師は因島病院の玉井国昭医師であり、また、公費負担を受けているが、その際の申請病名も右届出病名と同じになつている。

右認定のような右原告についての菌検査の結果、岡山大学付属病院の変形性股関節症との診断内容、玉井医師の骨関節結核の疑いを抱いた診断上の根拠と疑いの程度、石原医師の診断書作成の経緯、他の患者らと対照的な病状及び治療の経過等と、石原医師の診断書の存在や患者一覧表の記載、RAやASLOの各検査結果、結核登録、公費負担の事実等を彼此比較対照して考えると、医師の右股関節結核との診断は根拠に乏しいものといわざるを得ず、右原告が右股関節結核に罹患したものと認めるにはいまだ足りないというべきである。

(二) その余の患者らの罹患<省略>

三  骨関節結核の多発状況

1  本件患者らの結核の新規登録状況

原告岡野トシエを除く本件患者らがいずれも骨関節結核に罹患したことは前記二3認定のとおりであるが、右患者らの結核登録の際における届出病名は必ずしも骨関節結核に限られているわけではなく、そのなかには合併症の肺結核等が一割以上も含まれていることは、別紙一覧表一「結核登録及び公費負担状況」の「届出病名」欄を見れば明らかである。

そこで、本件患者らの結核の新規登録の状況を統計的に観察するため、右一覧表の数字データーを年別・保健所の所管区域別・届出病類別に分類して集計し、統計数値として表わすと、左の表二四のとおりとなる。

表二四 本件患者らの結核の新規登録状況の分類統計

区分

昭和・年

四四

四五

四六

四七

四八

合計

因島市

総数

三五

二六

六九

核結肺

一三

肺外結核

骨関節結核以外

骨関節結核

二五

二二

五五

瀬戸田町

総数

一四

肺結核

肺外結核

骨関節結核以外

骨関節結核

総数の和

四〇

三五

八三

ところで、<証拠>によれば、右の表二四と同一の期間における因島市及び瀬戸田町の年別の結核新規登録患者数は、左の表二五のとおりであることが認められる。

表二五 因島市及び瀬戸田町の年別の結核新規登録患者数

区分

昭和・年

四四

四五

四六

四七

四八

合計

因島市

総数

九五

一二五

九四

七三

四八

四三五

肺結核

八〇

八五

五七

五九

四一

三二二

肺外結核

骨関節結核以外

一二

一一

四三

骨関節結核

二九

二八

七〇

瀬戸田町

総数

一八

二八

二八

一四

一三

一〇一

肺結核

一七

二一

一八

七三

肺外結核

骨関節結核以外

一六

骨関節結核

一二

総数的和

一一二

一五三

一二二

八七

六一

五三六

右の表二四、表二五を対照してみると、因島市及び瀬戸田町における昭和四四年から同四八年までの骨関節結核登録患者のうちの大部分約75.6パーセント(六二/八二)が本件患者らによつて占められていることが看取できる。とくに、昭和四五年及び同四六年は、その占める人数も割合もともに他の年をかなり凌いでいることが分かる。

2  骨関節結核の新規登録患者数の増加

<証拠>によれば、因島市における昭和二九年から同四二年までの年別の結核新規登録患者数は左の表二六のとおりであり、同四三年から同五〇年までのそれは左の表二七のとおりであること、また、瀬戸田町を所管区域に含む三原保健所管内における昭和二七年から同四二年までの年別新規登録患者数は左の表二八のとおりであり、瀬戸田町のみにおける同四三年から同五〇年までのそれは左の表二九のとおりであることが認められる。

表二六 年別の結核新規登録患者数

(因島市)その

区分

全結核

全結核の内訳

昭和・年

呼吸器系

の結核

その他

の結核

二九

一八三

一七一

一二

三〇

一五二

一三七

一五

三一

一〇六

一〇〇

三二

二二四

二二四

三三

一九五

一九二

三四

一六六

一六一

三五

一五四

一五四

三六

八九

八七

三七

一二一

一二一

三八

二五二

二三五

一七

三九

一三六

一二六

一〇

四〇

一〇〇

九〇

一〇

四一

九一

八三

四二

八六

七四

一二

表二七 年別の結核新規登録患者数

(因島市)その

区分

昭和・年

四三

四四

四五

四六

四七

四八

四九

五〇

全結核

七八

九五

一二五

九四

七三

四八

七六

四七

全結核

の内訳

肺結核

六九

八〇

八五

五七

五九

四一

七〇

四二

肺外結核

一五

四〇

三七

一四

肺外結核の内訳

骨関節結核以外の肺外結核

一二

一一

骨関節結核

二九

二八

骨関節結核の内訳

脊椎カリエス

脊椎カリエス以外の骨関節結核

二八

二八

表二八 年別の結核新規登録患者数

(三原保健所管内)

区分

昭和・年

二七

二八

二九

三〇

三一

三二

三三

三四

三五

三六

三七

三八

三九

四〇

四一

四二

全結核

八五四

六二二

七二四

六八三

七八五

七四七

四三三

四三八

三五五

三〇一

三八九

三九七

三八九

三〇七

二八〇

二八二

そのうちの

瀬戸田町分

六二

五一

二八

二四

二八

二〇

二二

全結核の内訳

呼吸器系

の結核

七八七

五八七

六九二

六六二

七七三

七〇七

三九〇

四〇九

三三四

二八二

三五七

三七九

三五七

二九〇

二六七

二六三

その他

の結核

六七

三五

三二

二一

一二

四〇

四三

二九

二一

一九

三二

一八

三二

一七

一三

一九

表二九 年別の結核新規登録患者数

(三原保健所管内瀬戸田町分)

区分

昭和・年

四三

四四

四五

四六

四七

四八

四九

五〇

全結核

二三

一八

二八

二八

一四

一三

全結核の内訳

肺結核

一六

一七

二一

一八

肺外結核

一〇

肺外結核の内訳

骨関節結核以外の肺外結核

骨関節結核

骨関節結核の内訳

脊椎カリエス

脊椎カリエス以外の骨関節結核

右の表二六、表二七によると、因島市における全結核・「その他の結核」(肺外結核)の年別新規登録患者数は、いずれも昭和二九年以来同四四年までは多少の増減を繰り返しながら、ほぼ横ばい状態で推移していたのが、昭和四五年及び同四六年には、全結核の新規登録患者数にはさほどの変動はないのに、肺外結核、とくに脊椎カリエス以外の骨関節結核のそれは目立つて急増し、同四七年以降になると再びほぼ旧態に復していることが分かる。

一方、瀬戸田町のみにおける右新規の登録患者数の変動をみると、右の表二八、表二九のように、昭和四二年以前については統計が不十分であり、同四三年から同五〇年までについては患者の絶対数が少ないので、一概には言えないが、同四五年及び同四六年には、脊椎カリエス以外の骨関節結核患者数が比較的多いことが看取できる。

3  結核類別間の構成比率

(一) 通常の比率

<証拠>によれば、結核・肺外結核・骨関節結核の各発生頻度の割合については、概略、新しく発生してくる結核患者の総数のうち、その一〇分の一が肺外結核であり、そのまた一〇分の一が骨関節結核であると理解してよい旨述べていることが認められる。

全結核の新規発生患者数における肺外結核のそれの占める比率については、<証拠>によれば、全国における昭和三六年から同五〇年までの全結核・肺外結核の各罹患率(結核罹患率については後記4において詳述する。)の推計値は、左の表三〇の「全結核の罹患率」及び「肺外結核の罹患率」の各欄のとおりであることが認められ、後者の前者に対する比率は、計算上、同表の「肺外/全(%)」欄のとおりとなる。

表三〇 全国の結核罹患率

(一〇万対比)その

区分

全結核

肺外結核

肺外/全(%)

昭和・年

三六

456.3

20.8

4.6

三七

403.2

19.0

4.7

三八

386.7

34.6

9.0

三九

355.5

39.1

11.0

四〇

309.9

34.0

11.0

四一

282.5

33.1

11.7

四二

253.2

28.9

11.4

四三

225.0

23.9

10.6

四四

194.7

21.4

11.0

四五

172.3

19.3

11.2

四六

150.6

17.1

11.4

四七

137.8

14.7

10.7

四八

118.5

12.9

10.9

四九

106.7

11.2

10.5

五〇

96.6

9.7

10.0

これによると、新規発生患者数における肺外結核の全結核に対する比率は、昭和三九年以降ほぼ一〇パーセント強の数値を維持していることが明らかであり、右構成比率に関する前記岩崎龍郎氏らの見解とほぼ相応している。

そうすると、肺外結核の新規発生患者数における骨関節結核のそれの占める比率が約一〇分の一である趣旨の前記岩崎龍郎氏らの見解は、肺外結核と脊椎カリエスを除く骨関節結核との間の構成比率という意味において、ほぼ妥当なものといえる。

以上の次第であるから、かなりの精度をもつて、全国の全結核の新規発生患者数における肺外結核のそれの占める比率は約一〇パーセント、肺外結核の新規発生患者数における脊椎カリエスを除く骨関節結核のそれの占める比率は約一〇パーセント(全結核に対する関係では一パーセント)程度とみることができる。

(二) 因島市、瀬戸田町の比率

(1) 通常の比率との比較

そこで、因島市及び瀬戸田町における全結核・肺外結核・脊椎カリエスを除く骨関節結核の年別新規登録患者数について、統計数値の存する昭和四三年から同五〇年までの各構成比率を、前記の表二七、表二九に基づいて一覧表にすると、左の表三一、表三二のとおりとなる。

表三一 年別の結核新規登録患者数及び構成比率

(因島市)

区分

①全結核

②肺外結核

③脊椎カリエス以外の骨関節結核

昭和・年

(②/①)

(③/②)

(③/①)

四三

七八

11.5

44.4

5.1

四四

九五

一五

15.8

13.3

2.1

四五

一二五

四〇

32.0

二八

70.0

22.4

四六

九四

三七

39.4

二八

75.7

29.8

四七

七三

一四

19.2

42.9

8.2

四八

四八

14.6

28.6

4.2

四九

七六

7.9

0.0

0.0

五〇

四七

10.6

0.0

0.0

表三二 年別の結核新規登録患者数及び構成比率

(瀬戸田町)

区分

①全結核

②肺外結核

③脊椎カリエス以外の骨関節結核

昭和・年

(②/①)

(③/②)

(③/①)

四三

二三

30.4

14.3

4.3

四四

一八

5.6

0.0

0.0

四五

二八

25.0

57.1

14.3

四六

二八

一〇

35.7

50.0

17.9

四七

一四

42.9

16.7

7.1

四八

一三

30.8

50.0

15.4

四九

33.3

50.0

16.7

五〇

0.0

0.0

0.0

右の表三一、表三二に明らかなように、因島市及び瀬戸田町においては、昭和四五年及び同四六年を中心に、全結核と肺外結核、肺外結核と脊椎カリエス以外の骨関節結核間の各構成比率は、全国における通常のそれと著しく懸け離れている。

すなわち、結核の新規登録患者数は、因島市の昭和四五年の例では、全結核が一二五であるから、通常の比率でいけば、肺外結核がその一〇パーセントとして一三程度、脊椎カリエス以外の骨関節結核がその一パーセントとして一ないし二程度となるはずであるところ、現実には、肺外結核四〇(32.0パーセント)、脊椎カリエス以外の骨関節結核二八(22.4パーセント)となつており、通常の比率と比較すると、脊椎カリエス以外の骨関節結核では約二二倍の高率となつている。さらに、昭和四六年の例では、全結核が九四であるから、通常肺外結核が一〇程度、脊椎カリエス以外の骨関節結核が一程度であるべきところ、肺外結核三七(39.4パーセント)、脊椎カリエス以外の骨関節結核二八(29.8パーセント)となつており、脊椎カリエス以外の骨関節結核では通常の約三〇倍の高率となつている。同様のことは、瀬戸田町の昭和四五年及び同四六年の例についてもいえ、全結核が二八及び二八であるのに対し、肺外結核が七(25.0パーセント)及び一〇(35.7パーセント)、脊椎カリエス以外の骨関節結核が四(14.3パーセント)及び五(17.9パーセント)となつており、脊椎カリエス以外の骨関節結核では両年とも通常の十数倍となつている。

このように、因島市及び瀬戸田町における昭和四五年及び同四六年の全結核と肺外結核、肺外結核と脊椎カリエス以外の骨関節結核間の各構成比率は、通常の場合のそれと比較して、著しく不均衡であるといえる。

(3) まとめ

以上のように、年別の結核の新規登録患者数並びに脊椎カリエス以外の骨関節結核の肺外結核・全結核に対する各比率及び肺外結核の全結核に対する比率のうえからみると、因島市においては、昭和四五年及び同四六年をピークとして、脊椎カリエス以外の骨関節結核が著しく多発し、その前後にも多発傾向の存したことが認められる。

一方、瀬戸田町においても、前記のとおり各年別の比較には多少困難を伴うとはいえ、昭和四五年及び同四六年において脊椎カリエス以外の骨関節結核の多発傾向がうかがわれ、隣接する因島市の明らかな多発状況に照らし、これに呼応する性質のものと推認される。

4  結核罹患率

<証拠>によれば、結核罹患率は、結核のまん延状況を示す指標の一つであり、一年間に新たに結核として届け出られた患者の人口に対する関係比率をいい、人口一〇万人に対する数値で表わすことが認められる。

(一) 全国の罹患率

全国における全結核及び肺外結核の各罹患率の推計値については、前記の表三〇のとおりであるところ、脊椎カリエス以外の骨関節結核の新規発生患者数が肺外結核のそれの一〇パーセント程度であることは前述のとおりであるから、右の表三〇の肺外結核の罹患率から脊椎カリエス以外の骨関節結核のそれを推算し、全結核のそれをあわせて一覧表にすると、右の表三三のとおりとなる。

表三三 全国の結核罹患率

(一〇万対比)その

区分

全結核

肺外結核

脊椎カリエス以外の骨関節結核

昭和・年

三六

456.3

20.8

2.1

三七

403.2

19.0

1.9

三八

386.7

34.6

3.5

三九

355.5

39.1

3.9

四〇

309.9

34.0

3.4

四一

282.5

33.1

3.3

四二

253.2

28.9

2.9

四三

225.0

23.9

2.4

四四

194.7

21.4

2.1

四五

172.3

19.3

1.9

四六

150.6

17.1

1.7

四七

137.8

14.7

1.5

四八

118.5

12.9

1.3

四九

106.7

11.2

1.1

五〇

96.6

9.7

1.0

(二) 因島市の罹患率

そこで、右全国の結核罹患率と対比するために、同じ期間における因島市の結核罹患率(脊椎カリエス以外の骨関節結核の罹患率については、昭和四二年以前の当該患者数の統計が存在しないので、同四三年以降のみを表示する。)を前記の表二六、表二七の数値を基にして求める(患者数を人口で除してこれに一〇万を乗じる。)と、左の表三四のとおりとなる。

表三四 因島市の結核罹患率

(一〇万対比)

区分

全結核

肺外結核

脊椎カリエス以外の骨関節結核

昭和・年

三六

214.4

4.8

三七

291.6

0.0

三八

607.2

41.0

三九

327.7

24.1

四〇

243.1

24.3

四一

221.3

19.5

四二

209.1

29.2

四三

189.7

21.9

9.7

四四

231.0

36.5

4.9

四五

299.6

95.9

67.1

四六

225.3

88.7

67.1

四七

174.9

33.5

14.4

四八

115.0

16.8

4.8

四九

182.1

14.4

0.0

五〇

112.6

12.0

0.0

前記の表三三と右の表三四を対比すると、因島市の全結核及び肺外結核の各罹患率については、昭和三六年から同四三年までの間は、右両罹患率につき同三八年、肺外結核の罹患率につき同四二年を除き、いずれも全国のそれよりもむしろ低かつたのにもかかわらず、同四四年以降は、全結核の罹患率につき同四八年を除き、一転していずれも全国のそれよりも高くなつており、とくに、肺外結核の罹患率は、全国のそれに対する倍率でみると、同四四年に約1.7倍と比較的高い数値を示し、同四五年及び同四六年に約五倍と著しく高い数値に達し、同四七年に約2.3倍と、おおむね同四四年の程度に復し、同四八年以降は多少高いながらも全国の水準に徐々に近くなつていることが分かる。

因島市の脊椎カリエス以外の骨関節結核の罹患率については、昭和四二年以前のそれは不明であるが、同四三年の時点では、全国のそれに対する倍率で比較しても、すでに約4.0倍と相当高く、同四四年は約2.3倍と比較的高い数値を示し、同四五年及び同四六年には約35.3倍及び約39.5倍と著しく高い数値に達し、同四八年には約3.7倍程度の数値まで下がり、その後は〇であることが分かる。

このように、結核罹患率の面からみても、因島市においては、昭和四五年及び同四六年に肺外結核、とくに脊椎カリエス以外の骨関節結核の多発がピークに達し、その前後にも多発傾向の存したことが認められる。

(三) 瀬戸田町の罹患率

さらに、全国の結核罹患率と対比するために、統計の存する昭和四三年から同五〇年までの瀬戸田町の結核罹患率を求めると、左の表三五のとおりとなる。

表三五 瀬戸田町の結核罹患率

(一〇万対比)

区分

全結核

肺外結核

脊椎カリエス以外の骨関節結核

昭和・年

四三

190.4

57.9

8.3

四四

149.0

8.3

0.0

四五

231.6

57.9

33.1

四六

231.6

82.7

41.4

四七

115.8

49.6

8.3

四八

107.5

33.1

16.5

四九

49.6

16.5

8.3

五〇

33.1

0.0

0.0

前記の表三三と右の表三五を対比すると、瀬戸田町の全結核の罹患率は、昭和四三年から同五〇年までの間、同四五年及び同四六年を除いて、全国のそれよりも低いのに対し、肺外結核及び脊椎カリエス以外の肺外結核の各罹患率は、逆に相当高い数値を示しており、同四四年及び同五〇年を除いて、いずれも全国のそれよりもかなり高く、とくに、同四三年及び同四五年ないし同四七年の肺外結核の罹患率は約2.4倍ないし、4.8倍と高く、同四五年、同四六年及び同四八年の脊椎カリエス以外の骨関節結核の罹患率は約12.7倍ないし24.4倍と著しく高くなつていることが明らかである。

右の表三五によれば、瀬戸田町は、もともと肺外結核及び骨関節結核の各罹患率が高い地域ではないかとの印象を受けないわけではないが、同町においては、患者及び人口の絶対数が少ないため、わずかの患者数の増減によつて罹患率が大きく変動しがちであり、しかも、右罹患率に関する統計が、本件患者らを中心に骨関節結核の多発した時期を挾む八年間しか証拠上明らかでないことなどからすると、直ちに結論を下すことは困難といわなければならない。もつとも、右表によつても、肺外結核及び脊椎カリエス以外の骨関節結核については、少なくとも、昭和四五年及び同四六年をピークとし、その前後に増加又は減少の期間を伴う多発傾向はうかがい知ることができる。

5  脊椎カリエスとそれ以外の骨関節結核との発生頻度割合<省略>

6  まとめ

以上の検討結果によれば、因島市及び瀬戸田町において、昭和四五年、四六年を中心に、脊椎カリエス以外の骨関節結核が、新規登録患者数のうえでも、全結核の新規登録患者数に対する構成比率のうえでも、結核罹患率のうえでも、脊椎カリエスとの比較における発生頻度の割合のうえでも、著しく多発したことは明らかであつて、これは、まさしく骨関節結核の集団発生(ある集団で、普通期待されるより多くの結核患者が一定期間内に発生した事象)と呼ぶにふさわしいものである(以下「本件集団発生」ともいう)。

そして、<証拠>によれば、右骨関節結核の多発状況は因島市及び瀬戸田町にのみ偏在し、隣接の他市町村にも、広島県全域にも存在しなかつたことが認められる。

このように、本件集団発生は、特定の地域である因島市及びこれに隣接する瀬戸田町のみに、特定の期間である昭和四五年及び同四六年を中心とした一定期間に限つて、特定の第二次結核症である脊椎カリエス以外の骨関節結核が通常の場合に比較して異常に多発した現象であり、原告岡野トシエを除く本件患者ら(以下、「本件患者ら」という場合、とくに断らない限り、原告岡野トシエを除くものとする。)は、このような異常な多発状況のなかで、脊椎カリエス以外の骨関節結核(ただし、原告宮崎和子については右肩胛骨カリエス)に罹患し、しかも、多発した患者らの大部分(新規登録患者数においては約75.6パーセント)を占めたものである。

四  本件集団発生の原因

1  通常の発病病理からみた疑問

骨関節結核の通常の発病病理及び頻度については、前記一2(請求原因2(二)(2)、(3))のとおりであり、通常の発病病理に基づく骨関節結核の場合その発病の頻度が極めて低いことは、前記三3、4の結核類別間の構成比率、結核罹患率の全国平均値によつても明らかである。

ところで、本件集団発生に際しては、後記五認定のように、被告らによつて、骨関節結核の通常の発病病理を前提に、肺結核患者が多数潜在しているはずであるとの判断に立ち、その発見のため一般住民の健康診断が行なわれたが、何ら成果はなく、右以外に結核の多発状況はみられなかつた。

<証拠>によれば、脊椎カリエス以外の骨関節結核のみの多発という事態は、昭和四五年、同四六年当時、我が国においてはもちろん世界的にも全く報告例のなかつたことであり、前記のような骨関節結核の通常の発病病理からは到底説明しきれない現象であることが認められ、とくに、大谷清医師は、本件集団発生のような事態は臨床上あり得ないことであり、むしろ骨関節結核の診断自体の方を疑うべきであるとの趣旨の見解を有していることが認められる。

しかしながら、本件集団発生における患者らの大半を占める本件患者らが、骨関節結核に罹患したことは前記二3認定のとおりであり、本件患者ら以外の他の骨関節結核登録患者らについても、同2(二)(3)認定のとおり一、二の事後の結核登録の抹消の事実は存するものの、その余は誤診であつたと認めるに足りる証拠もなく、結局、骨関節結核の多発状況を否定するに足りる証拠は存しない。

そうすると、本件集団発生は、骨関節結核の通常の発病病理によつては到底説明できない極めて稀有、かつ特異な事件であると目するほかはなく、その原因を他に探し求めなければならない。

なお、被告らは、因島市がもともと肺結核を含む結核患者の多い地域であり、長年にわたり肉体作業等の重労働をして骨関節を酷使する者が多いことや栄養状態が良くないこと等によつて、同市が全国的にみて極めて骨関節結核患者の発生しやすい土地柄となつている旨主張する(被告らの主張2(三)(1)(ロ))。

しかしながら、右主張のうち、因島市がもともと肺結核を含む結核患者の多い地域であるとの部分は事実に反する。前記三4(ニ)認定のとおり、前記の表三三、表三四によつて、全国の結核罹患率と因島市のそれとを比較すると、昭和三六年から本件集団発生直前の同四四年までの間、同三八年及び同四四年を除いて明らかに因島市の罹患率の方が全国のそれよりも低くなつており、全般的にみれば、同市は全国的にみてそもそも結核の少ない地域であつたといえる。右両罹患率の高低が逆転するのは、昭和四五年及び同四六年をピークとする本件集団発生の直前ころからである。

また、因島市は重労働をして骨関節を酷使する者が多く、栄養状態が良くない地域であるとの主張については、証拠が十分ではないのみならず、常識的に判断しても、このような条件下にある地域は他にも多数存し、ひとり因島市に限られるわけではないと考えられるから、本件集団発生の原因として詮索するに足りないものというほかない。

2  本件患者らの共通点

本件集団発生の原因究明のためには、その当時の因島市及び瀬戸田町における骨関節結核患者全体の特徴や傾向を把握することが肝要であるが、本件患者ら以外の患者らについては立証がないので、さしあたり、その大半を占める本件患者らについて検討するに、右患者らには以下のような共通点が存する。

(一) 奥医院通院

前記二1(一)(1)ないし(83)(ただし、(47)を除く。)認定のとおり、本件患者らは、昭和四〇年ころ以降数々の医療機関に入通院して診療を受けているが、全員奥医院においてリウマチ・神経痛等の診断を受け、その治療のため同医院に通院している。右認定事実により、本件患者らとその受診した医療機関との対応関係を一覧表にすると、別紙一覧表八「関係医療機関」のとおりとなる。この一覧表からも明らかなように、本件患者らに共通する医療機関は奥医院ただ一つであり、同医院以外には見当たらない。

以上、被告らが本件患者らの一部の者について奥医院通院の事実を否定しようとする指摘はいずれも根拠に乏しく、これらの者の奥医院通院の認定事実を左右するに足りない。

このように、本件患者らは全員奥医院に通院しており、しかも、同医院のみが右患者ら全員に共通する医療機関である。

なお、前記別紙一覧表八「関係医療機関」によれば、本件患者らのうち三六名が因島病院、うち二五名が三原赤十字病院、うち二一名が尾道総合病院、うち一八名が村上病院においてそれぞれ受療しており、各病院とも受療した患者数は比較的多いけれども、前記二1(一)(1)ないし(83)(ただし、(47)を除く。)認定のとおり、右患者らの大部分は、奥医院通院以後病状の悪化のため右各病院に転医し、結核の診断を受けたものである。

(二) 奥医院通院以後の発病

本件患者らがいずれも奥医院に通院し、しかも、右患者らに共通する医療機関が同医院のみであること、右患者らが同医院通院後それぞれ他の医療機関において骨関節結核等の結核診断を受けたことは前述のとおりであるが、さらに、右患者らについて、別紙一覧表一「結核登録及び公費負担状況」のうちの各結核医療費支給開始昭和年月日並びに前記二1(一)(1)ないし(83)(ただし、(47)を除く。)認定の各病状及び治療の経過のうち、従前の病状がさらに悪化した時期及び奥医院に通院した期間を一まとめにすると、別紙一覧表九「奥医院通院治療及び発病時期・部位別状況」のうちの「結核医療開始年月日」、「病状悪化時期」、「奥医院通院期間」の各欄のとおりとなる。これによると、本件患者らについて、いずれも奥医院通院中、又は通院をやめた後間もなく病状が悪化し、やがて他の医療機関において結核診断を受け、結核の医療が開始されたことが明らかであり、遅くとも右病状悪化時期に結核が発病したものと推認できる。なお、後記3(二)認定のとおり、奥医院は、昭和四五年一一月二四日奥保男医師が死亡したころ閉院となり、以後同医院での診療は行なわれなくなつたが、後記五3(四)認定のとおり、本件集団発生は昭和四七年半ばをもつてほぼ終息している。

(三) 関節注射部位への発病

本件患者らは、前記二1(一)(1)ないし(83)(ただし、(47)を除く。)認定のとおり、いずれも奥医院において、リウマチ・神経痛等の診断により、患部に関節注射を打たれ、その後骨関節結核を発病したものであるが、それぞれの関節注射部位と骨関節結核発病部位とを対置して列記すると、別紙一覧表九「奥医院通院治療及び発病時期・部位別状況」のうちの「関節注射部位」及び「骨関節結核発病部位」の各欄のとおりとなる。

これによると、亡岡野ハナ子、同村上常春、原告阿部ノブエ、亡小池律、同新川マサ子の五名については、注射部位とともに他の部位にも関節結核が発病しているが、その他の患者らについては、いずれも関節注射部位の全部又は一部に骨関節結核が発病している(なお、右五名の注射部位以外の骨関節結核の発病の原因については、後記四4(四)のとおりである)。

(四) 院内感染の疑い

以上のように、本件患者らについて、いずれも奥医院にリウマチ・神経痛等の診断の下に通院し、しかも、その通院以後病状が悪化し、転医して他の病院又は医院において骨関節結核等の結核診断を受けているほか、奥医院における関節注射部位と骨関節結核の発病部位とがほぼ対応している等の共通点が存すること、そして、右以外に本件患者らに何らかの共通点が存するか否かについて、被告らから特段の主張・立証もなく、本件全証拠関係によつても他の共通点が認められないことからすると、骨関節結核そのものの伝染(骨関節から骨関節への伝染)ということが通常は考えられないにしても、その病原菌である結核菌に伝染性が存する以上、本件患者らの骨関節結核の発病は、奥医院に何らかの関係を有するのではないか、これをもう少し具体的に言えば同医院の内部において感染が起こり(いわゆる院内感染)、その結果生じたものではないかとの疑いをもつて然るべきものである。

3  奥医院における問題点

それでは、奥医院の内部においていわゆる院内感染を起こしたと疑うに足りる状況が存したのであろうか、以下、検討する。

(一) 副腎皮質ステロイド剤の使用

以上のとおり、副腎皮質ステロイド剤は、強い抗炎症作用をもち、種々の炎症に対して極めて有効である反面、その深刻な副作用のゆえに乱用が戒められ、その使用については十分な注意を要するものであり、とくに関節内への注入にあたつては、誘発感染症に対する配慮から、禁忌の合併症の有無の確認とともに、厳重な無菌操作、消毒等が要求されるものである。したがつて、たとえば、ステロイド剤が結核菌の潜んでいる関節腔内に注入された場合は、関節結核を誘発することがあり得るし、また、ステロイド剤の注入の際に、注射器具の消毒の不完全等のため結核菌が関節腔内に侵入したような場合にも、関節結核の発病の可能性を否定することはできないものというべきである。

(二) 無菌操作、消毒等の不完全

奥医院においては、このような副腎皮質ステロイド剤の使用にあたつて十分な配慮がなされていたのであろうか。

<証拠>によれば、奥保男(大正四年一一月二六日生)医師は、従前より因島市大浜町一七二三番地の二所在の奥医院において医療行為に従事していたこと、同医院の間取りは、概略、別紙「奥医院平面図」のとおりであつたこと、昭和四四年ころ当時、同医院には看護婦見習として河野ツヤ子・益原民子・竹原正枝の三名が勤務しており、診療時にはそのうちの一名が診察室で奥医師の診療行為の補助に当たり、他の二名が薬局等で仕事をしていたこと、このころ、同医師は、すでに言語障害に陥つており、口からよだれをたらし、舌がもつれて、患者との会話がほとんどできない状態であり、看護婦見習のなかの竹原正枝が奥医師の言葉をよく理解できたので、同医師の傍らにいて、患者に対し、同医師の言葉を通訳していることが多かつたこと、当時同医院の患者は、そのほとんどがリウマチ・関節炎・神経痛等の関節の治療に来ており、同医師の治療方法は、主に副腎皮質ステロイド剤の関節注射を一週間に一度打つことであり、その注射液としてはケナコルトAとコーデルコートンTBAの二種類が使用されていたこと、関節注射の仕方は、一回分ずつアンプルに入つている注射液を注射するというのではなく、直径三センチメートル位、高さ四センチメートル位のゴム製の蓋のある五cc位入りの容器から、注射のたびに、注射器の針を右容器のゴム製の蓋から差し込んで、一回分の注射液(通常0.5cc位)を吸い上げて、その針を付けたまま、患者の患部の関節に注入し、一人の患者に対する注射が済むと、針も注射器も取り替えず、再び右注射液の入つた容器のゴム製の蓋に針を差し込み、注射液を吸い上げて、そのまま次の患者に関節注射をするということもよくあつたこと、右注射液の入つた容器のゴム製の蓋は、注射針を差し込む際には、その都度ヨーチンで拭き、さらにアルコール綿で拭き、患者の注射部倍も同様に消毒し、一人の患者に対する注入を済ませると、注射針はアルコールで覆つていたこと、患者の関節患部に注射針を差し込んで、関節に貯溜した液を抜いた後、針は差し込んだまま、注射筒を外し、ステロイド剤の注射液を入れた注射筒をつないで、関節注射をしたこともあつたこと、注射器の消毒は、鍋の中に注射筒を入れて煮沸する煮沸消毒の方法をとり、煮沸する前に、診察室の流しで注射筒を水洗いし、これを診察室の続きにある奥医師の自宅の台所で煮沸し、冬には診察室のストーブの上で湯を沸かし、煮沸していたこと、同医師は、昭和四五年七月二〇日言語障害と嚥下困難の悪化を訴えて広島市民病院にて診察を受け、進行性球麻痺との診断により同病院に入院し、特段の回復をみないまま同年八月一九日退院し、この間同医師の長男奥保彦医師が奥医院において診療行為に当たつていたこと、奥保男医師は、退院後同医院において前同様の診療行為に従事していたが、同年一一月二四日死亡し、そのころ同医院は閉院されるに至つたこと、以上のとおり認められ<る。>

右認定事実によれば、奥医院においては、ステロイド剤の局所注射の際に通常要求される注射器や針のオートクレープ(加圧蒸気滅菌器)による消毒が行なわれておらず、単に注射器については煮沸消毒、針についてはアルコール消毒のみがなされていたことは明らかであり、前記二2(二)(4)認定の結核菌の熱に対する抵抗力に照らすと、少なくとも結核菌に対する関係においては、注射器や針に対する消毒方法が完全であつたとはいい難い。また、関節注射の際に、感染症を誘発する原因となる疾患、たとえば関節腔内における既往の化膿性疾患の存否の確認が、問診というかたちにせよ十分になされていたかどうかについても、奥医師の右言語障害の状況からみて、いささか心もとない。さらに、大きめの容器にステロイド剤の注射液を入れておき、注射するたびに注射針を容器のゴム製の蓋から差し込んで、一回分の注射液を吸い上げ、一人の患者に対する注射が済むと、注射針も注射器も取り替えず、次の患者に同一の注射針と注射器で同様の手順で注射をするというのでは、右容器の蓋や注射針等をヨーチンやアルコールで拭くとはいえ、ステロイド注射の際に要求される厳重な無菌操作の観点からすると、明らかに遺漏があつたといわなければならない。

このように、奥医院においては、ステロイド剤の関節注入の際に通常要求される十分な配慮に乏しかつたものと認められ、場合によつては菌侵入による結核感染の可能性も否定できない状況にあつたものと認められる。

(三) 結核患者の存在

奥医院において、無菌操作や消毒等が不完全であつたことは前述のとおりであるが、さらに、ステロイド剤の関節注射の際に患者の関節腔内に結核菌が侵入するような機会が存し得たのであろうか。

<証拠>によれば、奥医院には、前記関節等の疾病の治療に来る患者らに混じつて、肺結核患者も通院していたことが認められる。

<証拠>によれば、奥医師は一六歳のころ肋膜炎を患つたことがあり、同人の妻ヒデコ(大正九年六月二五日生)は昭和三七年一二月九日肺結核により死亡したことが認められる。

そして、<証拠>によれば、竹原正枝は、昭和四一年三月高等学校を卒業後、奥医院に看護婦見習として勤務するようになり、昭和四四年ころには言語障害のある奥医師の言葉を他の看護婦見習よりもよく理解できたことから、診察室で同医師の傍らにいて、診療行為の補助に当たりながら患者のために通訳のようなことをしていたとこと、そのころ、よく発熱し、自分で解熱剤を服用したり、奥医師から注射をしてもらつたりしていたこと、昭和四五年二月二八日花嫁修業として洋裁を習うため同医院を退職し、同年三月一八日右肩の痛み、とくに運動痛を訴えて村上病院で診察を受け、右肩関節周囲炎、遊走腎術後、関節リウマチの疑いとの診断の下に、諸検査を受け、同月二五日、二八日にも同病院に通院したが、エックス線・血沈・CRPの検査等によつても特段の異常は認められなかつたこと、ところが、同年四月初めころから発熱が著しく、同月一六日ころから呼吸困難を訴え、同月二〇日から同年五月二日まで杉本医院の往診を受け、急性気管支肺炎兼急性右心不全との診断により治療を受けたほか、さらに、同年四月下旬ころから結核の疑いにより抗結核剤の投与も受けたこと、病状悪化により、同年五月四日には再度村上病院で診察を受け、即日同病院に入院し、乾酪性肺炎(結核菌に基づく組織の乾酪壊死を伴う肺炎)の疑いとの診断の下に結核の治療を受けたが、呼吸困難等の重篤な状態のまま同月一一日退院し、同月一三日死亡するに至つたこと、同子の死亡診断書は奥医師が作成し、その死亡の原因欄中の直接死因欄には「粟粒肺結核」と記載されていることが認められ<る。>

右認定事実によれば、竹原正枝について、杉本医院及び村上病院の各医師並びに奥医師がいずれも一致して結核の疑いをもつていたことが明らかであり、同女が乾酪性肺炎ないし粟粒結核に罹患していた疑いが濃厚である。

(四) 感染症の誘発等の可能性

このように、本件患者らについては、奥医院で受けた関節注射の注射部位と骨関節結核を発病した関節部位とがほぼ対応していること、注射されたステロイド剤には免疫抵抗を低下させる等の副作用があり、その使用にあたつては、厳重な無菌操作等が要求されるのに、同医院ではこの点不完全な状況にあつたこと、さらに、通院患者の中には肺結核患者もおり、看護婦見習の一人が同医院を退職後結核の疑いの濃厚な状態で死亡したこと等をあわせ考えると、同医院におけるステロイド剤の関節注射によつて、関節腔内に潜んでいた結核菌が活動を開始したための発病、すなわち、いわゆる感染症の誘発、又は、外部から関節腔内に結核菌が侵入したための直接感染による発病、すなわち、いわゆる接種感染の各可能性が、いずれも現実性を帯びてくる。

ところで、前記二1(一)認定の事実、<証拠>によれば、本件患者らのうち前述の既往歴や合併症を有する患者以外の患者らの大部分には、胸部エックス線によるも何らの病変も存しないことが認められ、右事実によると、右大部分の患者らの関節部位に結核菌が潜んでいたとは直ちに考え難いうえに、単にステロイド注射の多用とその使用時の不注意が骨関節結核多発の原因であるならば、当時ステロイド剤が医療機関において広く使用されていたとうかがわれるから、全国的にその多発傾向がみられて然るべきものと考えるが、証拠上このような報告がなされた形跡もなく、さらに、奥医院での関節注射により化膿菌感染症の誘発の傾向は証拠上認められないのに、骨関節結核のみが多発したこと等の事実が指摘できるところ、このような諸状況はいわゆる感染症の誘発ということによつては十分説明できないものといわなければならない。

本件患者らの骨関節結核の罹患状況と極めて類似する関節結核の多発事例である後記4(一)(5)の佐原関節結核事件においても、調査に当たつた県の結核対策審議会は、感染源や感染経路は特定できないとしながら、誘発感染の可能性を否定しないものの、接種結核の可能性の方が強く疑われる旨の報告をしているのであり、この報告は、本件患者らについても同様に当てはまるものといえる。

本件患者らの骨関節結核の罹患がいわゆる感染症の誘発では十分説明できないとすると、いわゆる接種感染、すなわち、奥医院での本件患者らに対する関節注射の際、何らかの原因で、注射器若しくは注射針又はステロイド注射液に結核菌が付着又は混入し、右関節注射によつて外部から関節腔内に結核菌が侵入した結果、直接感染を生じたとの可能性が浮かび上がつてくる。

4  接種感染の可能性

(一) 接種感染の事例<省略>

(二) 事例と本件との比較

前記五件の接種感染の事例は、いずれも医師が関与し、その医療行為が関係している点において共通している。さらに、いずれも接種(注射又は点耳)局所や所属腋窩リンパ節などに結核病変を生じており、他の感染の可能性がほぼ否定されることから、接種結核と断定され、あるいは、その疑いが濃厚であるとされている。道場村事件及び岩ケ崎町事件は、いずれも予防接種の際の感染であり、三重中耳結核事件、和歌山中耳結核事件及び佐原関節結核事件は、いずれも院内感染である。

道場村事件及び岩ケ崎事件は、いずれも医療行為に当たつた医師が肺結核患者であつたことが判明し、和歌山中耳結核事件では、医療機関で受診した患者の中に肺結核兼中耳結核患者がいたことが判明し、それぞれ感染源と推定されているのに対し、三重中耳結核事件及び佐原関節結核事件は、いずれも感染源と推定される者が判明していない。感染経路については、和歌山中耳結核事件以外は、いずれも解明されておらず、和歌山中耳結核事件でも、点耳用スポイド又は点耳薬の結核菌汚染による接種感染と推定されているが、詳細は明らかではない。和歌山中耳結核事件及び佐原関節結核事件は、点耳又は注射された薬液がいずれもステロイド溶液であり、同薬液の副作用の面についても一部指摘がある点において共通している。

このように、これら接種感染による結核の集団発生と断定され、あるいは、その疑いが濃厚とされている五件の事例間には、種々の共通点・類似点が存するが、本件患者らの骨関節結核の罹患とこれら五件の事例との間にも、次のとおり共通点・類似点が存する。

すなわち、本件患者らの骨関節結核の罹患は、医師の医療行為が施された局所に結核を発病したという点において、前記五件の事例と共通し、患者らが一定の医療機関に通院していたという点において、三重中耳結核事件、和歌山中耳結核事件及び佐原関節結核事件と共通する。また、医療現場又はその周辺に肺結核患者又はその疑いの濃い者がいたことが判明している点において、道場村事件、岩ケ崎町事件及び和歌山中耳結核事件と類似しており、感染経路が解明できなかつた点において、和歌山中耳結核事件を除くその余の四件と同様である(和歌山中耳結核事件でも、感染源や感染経路については推定の域を出ない)。そして、接種されたのがステロイド剤である点において、和歌山中耳結核事件及び佐原関節結核事件と共通している。とくに、佐原関節結核事件との対比においては、いずれも関節結核の多発であること、いずれも治療行為に当たつた医師がステロイド注射を多用しており、リウマチ等によく効くとの噂が広がつて、患者が多数通院していたことなど極めて似通つている。

以上のとおり、本件患者らの骨関節結核の罹患の状況は、接種感染による結核の集団発生の事例として学会や文献に報告された前記五件の事例と比較対照しても、接種感染による結核の集団発生と目するのに何ら遜色はないものといえる。

(三) 発病間隔、注射回数の問題<省略>

(四) 既往症、合併症との関係<省略>

5  まとめ

以上検討してきた結果を総合すれば、本件患者らについては、因島市及び瀬戸田町における骨関節結核の異常な多発状況のなかで、これに罹患した患者らの大部分を占めるものであり、奥医院通院、同医院通院以後の発病、同医院における関節注射部位への発病という共通点があつて、他に特段の共通点が見当たらないうえに、同医院で関節注射に使用されたステロイド剤には免疫抵抗を低下させる等の副作用があり、その使用にあたつては厳重な無菌操作等が要求されているのに、同医院ではこの点に対する配慮が十分でなく、さらに同医院には肺結核患者も治療のため通院し、看護婦見習も同医院を退職後結核の疑いのまま死亡しているなど同医院について幾つかの問題点を指摘することができる。そして、これら諸事情の下に発生した本件集団発生と、接種感染による結核の集団発生として報告されている他の各事例との間には、前記4(二)のような種々の共通点・類似点が存する。以上の事実関係からすると、本件患者らの骨関節結核の罹患については、奥医院が重大な関係を有しているものと認めるほかなく、それも、医療行為の際に、感染源や感染経路は特定できないものの、注射器具等の消毒不完全等のため、何らかの原因で、これら器具ないしステロイド注射液に結核菌が付着又は混入し、その関節注入によつて結核感染を起こし、ステロイド剤の副作用とも相まつて、連鎖的に骨関節結核患者を増加させていつた、いわゆる接種感染の疑いが濃厚なものと認められる。

確かに、前述の既往歴や合併症を有する患者らについては、全体として、いわゆる誘発感染やいわゆる二次感染では説明困難であるが、なかにこれらの例が二、三混じつていたとしても、患者数の面からみて特段に不自然ともいえない。事実、前記佐原関節結核事件では、調査委員会の報告は、接種感染を強く疑いながら、誘発感染の可能性も否定していないのであり、奥医院についても、ステロイド注射の多用の状況からして、誘発感染例が前記既往歴を有する患者の中に絶無とは言い切れない面が残る。また、いわゆる二次感染により骨関節部に結核が発病したところへ、偶然奥医院で関節注射を打たれたという患者も、可能性としては絶無とはいえず、本件患者らの中に混じつているのかも知れない。

このように、可能性を指摘すれば、奥医院における接種感染による罹患以外の患者が、本件患者らの中に、ごく少数とはいえ混在するかも知れず、しかも、その者を特定することは不可能であるけれども、このごく少数の患者の存在の可能性及びその者の特定の不可能を理由に、大多数の患者らと奥医院との関連、さらには接種感染の疑いを否定ないし過小評価することは到底できないというべきである。

五  本件集団発生下及びその前後の経緯

1  結核の新規登録患者数の月別の推移

本件患者らの骨関節結核の罹患並びに因島市及び瀬戸田町における骨関節結核の多発状況は、前記第二の二、三のとおりであるが、右状況は、所轄保健所による月別の結核新規登録患者数の統計数値上には以下のように現われている。

(一) 因島市の月別の推移

調査嘱託(嘱託先因島保健所)の結果によれば、因島市における昭和四三年から同四八年までの全結核・肺外結核・骨関節結核の新規登録患者数の月別の推移は、左の表三六のとおりである。

表三六 結核新規登録患者数の月別の推移

(因島市)

区分

全結核

肺外結核

骨関節結核

年 月

脊椎カリエス

脊椎カリエス以外の骨関節結核

昭和四三年一月

一〇

二月

三月

一〇

四月

五月

一〇

六月

七月

一一

八月

九月

一〇月

一一月

一二

昭和四四年一月

二月

三月

四月

五月

六月

一一

七月

二〇

八月

一〇

九月

一〇

一〇月

一一月

一二月

昭和四五年一月

二月

一〇

三月

一三

四月

一一

五月

一一

六月

一四

七月

八月

一二

九月

一〇月

一五

昭和四五年一一月

一二月

昭和四六年一月

一〇

二月

三月

一三

四月

一一

五月

六月

七月

一〇

八月

九月

一四

一〇月

一一月

一二月

昭和四七年一月

二月

一三

三月

四月

五月

六月

七月

八月

九月

一〇月

一一月

一二

昭和四八年一月

二月

三月

四月

五月

六月

七月

八月

九月

一〇月

一一月

一二月

右の表のうち、脊椎カリエスとそれ以外の骨関節結核の新規登録患者数の月別の推移をグラフにすると、別紙図Ⅱのとおりとなる。

(二) 瀬戸田町の月別の推移

調査嘱託(嘱託先三原保健所)の結果によれば、瀬戸田町における昭和四三年から同四八年までの全結核・肺外結核・骨関節結核の新規登録患者数の月別の推移は、左の表三七のとおりである。

表三七 結核新規登録患者数の月別の推移

(瀬戸田町)

区分

全結核

肺外結核

骨関節結核

年月

脊椎カリエス

脊椎カリエス以外の骨関節結核

昭和四三年一月

二月

三月

四月

五月

六月

七月

八月

九月

一〇月

一一月

一二月

昭和四四年一月

二月

三月

四月

五月

六月

七月

八月

九月

一〇月

一一月

一二月

昭和四五年一月

二月

〇'

三月

四月

五月

六月

七月

八月

九月

一〇月

昭和四五年一一月

一二月

昭和四六年一月

二月

三月

四月

五月

六月

七月

八月

九月

一〇月

一一月

一二月

昭和四七年一月

二月

三月

四月

五月

六月

七月

八月

九月

一〇月

一一月

一二月

昭和四八年一月

二月

三月

四月

五月

六月

七月

八月

九月

一〇月

一一月

一二月

2  因島保健所長の対応及びその周辺

<証拠>によれば、左の事実が認められる。

(一) 結核登録、医療費の公的負担、保健婦の家庭訪問指導

本件患者らのうちの因島保健所管内の存在者について、結核登録及び医療費の公費による負担がなされたことは、前記第二の二1(三)のとおりであり、右の者らについて、別紙一覧表六「保健婦家庭訪問指導実施状況その二」及び同七「同その三」のとおり、保健婦の家庭訪問指導がなされた。

(二) 骨関節結核の増加の認知

因島保健所長永田三六(以下「永田所長」ともいう。)は、昭和四五年四、五月ころ、通常稀有なはずの骨関節結核の新規登録患者数が多くなつていることに気付き、同年初めからの累計で七、八人に達していること(同年一月から同年四月までの骨関節結核の新規登録患者数の合計は八人である。)を知つた。そこで、以後、骨関節結核の届出状況に注目するとともに、骨関節結核は発病病理上肺の結核病変が先行する第二次結核症であり、新規登録患者数において、通常全結核の一〇分の一程度が肺外結核、その一〇分の一程度が骨関節結核であるとの認識の下に、多数の肺結核患者が潜在しているのではないかと考えて、とりあえず、例年秋に行なわれる因島市長による一般住民の健康診断(胸部エックス線撮影による)の結果を待つこととした。

昭和四五年五月一三日、奥医院において同年二月末まで看護婦見習をしていた竹原正枝が、結核の疑い濃厚な状態で死亡し、同年五月一九日、因島保健所によつて、同女の父母及び妹について家族検診が行なわれ、いずれも異常なしと診断された。

(三) 健康診断(昭和四五年)

例年秋に因島市長によつて行なわれる定期の一般住民健康診断が、昭和四五年九月三日から同年一〇月三日までの間にかけて実施され、総数二九三〇人が受診し、同年一一月ころその結果が出されたが、肺結核患者一二、三人が新たに発見されたのみで、例年の結果とあまり変わりがなく、かなりの肺結核患者が発見されるのではないかと考えていた永田所長の予想は、大幅に裏切られた(前記表三六によると、同年一月から同年一〇月までの骨関節結核新規登録患者数の合計はすでに二五人に達していた)。

昭和四五年一一月二四日奥医師が死亡し、奥医院は閉院された。

(四) 結核登録者に関する定期報告(昭和四五年分)

因島保健所長は、昭和四六年一月八日、厚生省衛発第八五八号昭和四三年一二月一〇日厚生省衛生局長通知による様式に基づき、広島県衛生部長あてに、昭和四五年の因島保健所管内の「結核登録者に関する定期報告について」と題する報告書を作成して、昭和四六年一月一一日広島県衛生部長に提出したが、右報告書には、同保健所管内の昭和四五年の新規登録患者数について、活動性肺結核(感染性二九、非感染性五六)、活動性肺外結核四〇、計一二五と記載されていた(当時は肺外結核の種類別内訳数の報告は様式上要求されていなかつた)。

(五) 結核患者分布状況表の作成

昭和四六年に入つてからも骨関節結核の新規登録が相次いだため(同年一月三人、同年二月二人、同年三月七人)、永田所長は、因島保健所予防課員に命じて統計をとらせたうえ、概略左の表四〇のとおり、同月二三日現在における因島市内在住の結核患者の地区別分布状況を示す表等を作成させ、今後の対策を考えるうえでの参考にしようとした。

その後も骨関節結核の新規登録が相次ぐなかで(昭和四六年四月五人、同年五月三人、同年六月一人、同年七月四人)、永田所長は、やはり多数の肺結核患者が潜在しているものとの考えの下に、再び健康診断の結果を待つこととした。

(六) 健康診断(昭和四六年)

昭和四六年春には例年のとおり第一次の業態者の定期外の健康診断が実施され、さらに、同年八月四日から同年一〇月一日まで因島市長による定期の住民健康診断が実施され(受診者数二八六一人)、その際、前記表四〇の統計表を参考に結核患者の多い因島市大浜地区が重点地域と指定されたが、いずれも例年の結果とさほど変わりはなく、そのほか、同年中に実施された同市内の学校長・施設長による定期の健康診断(受診者数九五〇九人)、事業者による定期の健康診断、因島保健所長による結核患者の家族に対する定期外の健康診断(同一一五人)、業態者に対する秋の定期外の健康診断(春秋の受診者数合計三八一人)の結果によつても、過去の実績とあまり変化はなく、永田所長の予想した多数の肺結核患者の発見は全くなかつた(同年中の骨関節結核の新規登録患者数の合計は、脊椎カリエス○、それ以外の骨関節結核二八であつた)。

(七) 奥医院に関する風評

この間、増え続ける骨関節結核患者らは、因島市やその周辺等の各医療機関において個々に治療を受けていたが、三原赤十字病院整形外科医長である玉井国昭医師(同医師は因島病院整形外科でも週に一度診療行為に当たつていた。)は、関節部の異常を訴えて両病院に来院する患者らに対し、通常稀有なはずの関節結核の診断を下すことが度重なるので、不審を抱き、問診等により、遅くとも昭和四六年春ころには、その患者らの七、八割が奥医院で以前治療を受けていたとの共通点を有することに気付き、以後この事実に一応着目して診療行為に当たるようになつていた。

また、同じころ、各医療機関で骨関節結核と診断された患者らやその周辺でも、奥医院に発病の原因があるのではないかとの噂が広まり始めていた。

骨関節結核の新規登録患者に対しては、因島保健所の保健婦三名により、家庭訪問指導が実施されていたが、保健婦らは、その家庭訪問指導活動を通じて、やがて骨関節結核患者の多くが奥医院に通院したことがある事実に気付くようになり、同時に前記のような噂も耳にするようになつたので、昭和四六年半ばころ永田所長に対し、その旨の報告をした。しかし、同所長は、保健婦らに対し、「本当か、よく調べてみるように。」との趣旨の指示をしたのみで、それ以上の特段の指示も与えないまま経過していた。

他方、前記因島市長による定期の住民健康診断の終了した昭和四六年一〇月一一日ころ、市民から行政機関等に対する要望や苦情等を聴取するため、例年に倣つて因島市役所で催された「一日総合相談」において、因島保健所から列席した総務課長は、市民二名から、「奥医院で神経痛との診断を受け、よくならないので、三原赤十字病院等に行くと結核と診断された。他にも同様の例があると聞いている。奥医院の誤診ではないか。」との趣旨の相談を受け、これを永田所長に報告した。

このころ、永田所長は、昨年(昭和四五年)に続き、この年(昭和四六年)の健康診断によつても、予想していた多数の肺結核患者が全く発見されない様子なので、これまでの健康診断の方法に何か不備欠陥があつて、多数潜在するはずの肺結核患者を発見できない結果を招いているのではないかと苦慮していた時期でもあり、市民から奥医院の診療行為について疑義がある旨の指摘も出た以上、行政側として何らかの対応をする必要を感じ、この際広島県衛生部にこれらの経緯を報告し、その指示を仰ぐこととした。

(八) 寺上予防課長への相談

永田所長は、昭和四六年一〇月下旬ころ、広島県衛生部に、同部予防課(昭和四七年四月公衆衛生課と改称)の課長寺上正人(以下「寺上課長」ともいう。)を訪ね、同課長に対し、「昭和四五年初めころから因島保健所管内で骨関節結核患者の発生が相次いでいる。これらの患者の多くが奥医院で治療を受けており、誤診ではないかとの風評もある。保健所としての処置は完全にしたつもりであるが、分からない点もあるので、相談したい。」との趣旨を口頭で述べた。このとき、永田所長は、何ら資料等を持参していなかつたため、寺上課長から、資料等に基づきより詳しい報告をするよう求められた。

(九) 結核登録者に関する定期報告(昭和四六年分)

因島保健所長は、昭和四七年一月、前記(四)と同様の様式に基づき、広島県衛生部長あてに、昭和四六年の因島保健所管内の「結核登録者に関する定期報告について」と題する報告書を作成して提出したが、これによると、同保健所管内の昭和四六年の新規登録患者数は、活動性肺結核五七、活動性肺外結核三七、計九四であつた。

3  広島県衛生部の関与及びその周辺

<証拠>によれば、左の事実が認められる。

(一) 新聞報道等

寺上課長は、昭和四六年一〇月下旬ころ永田所長から前記のような口頭による報告を受けた時点で初めて因島市における骨関節結核の多発を知つたが、広島県衛生部で長く結核関係の業務に携わつてきた経験に照らして、右多発は非常に異例な事態であるとの印象を受け、永田所長に対し資料等に基づき詳しい報告をするよう求めるとともに、直ちに衛生部長にその旨報告し、同部長から実態を究明するようにとの指示を受けた。

昭和四六年一二月末ころ、永田所長は、寺上課長の下に、前記報告を求められた因島市の骨関節結核の発生状況、有病率、罹患率等を一応取りまとめた書面を持参した(このとき、竹原正枝の死亡の事実についても報告がなされた)。

(二) 識者からの意見聴取

広島県衛生部では、これまで一部地域における骨関節結核の多発という事態は例がなく、前記新聞報道がなされたこと等から、因島市において骨関節結核が多発した原因やこれに対する対応策について結核や疲学の専門家から意見を聴取する必要を認めた。

そこで、寺上課長は、昭和四七年初めころ、まず広島大学の原爆放射能医学研究所に疫学統計専門の渡辺孟教授を訪ね、衛生部予防課員に作成させた因島市における全結核及び肺外結核の患者数及び有病率の推移を広島県及び全国と比較した一覧表(概略左の表四一、四二のとおり)、肺外結核の部位別発病数の一覧表(概略左の表四三のとおり)を提示して、事情説明をしたうえ、前記原因や対応策について意見を求めたところ、同教授は、骨関節結核が慢性で潜伏期間の長い血行性による疾患であることを理由に、疫学的な原因究明は非常に困難であろうとの見解を示した。

さらに、寺上課長は、このころ、広島大学医学部に、長年主に呼吸器系の結核の研究に携わつてきた西本幸男教授(以下「西本教授」という。)を訪ね、前同様の一覧表を提示して事情説明をしたうえ、前記原因や対応策について意見を求めたところ、同教授は、骨関節結核の血行性という発病病理からすると、因島には他にも結核の潜在患者が多数いるかも知れないので、早急に住民一般の健康診断をする必要がある旨述べた。

(三) 特別住民健康診断

前記意見聴取に基づき、寺上課長は、もう一度因島市において広島県衛生部予防課の主導の下に特別に住民の健康診断を実施することとし、西本教授らの指導を受けて、今回は肺結核患者の発見ばかりでなく、従来の健康診断では発見できない骨関節結核患者についても何らかの手掛かりを得ることを目的として、左記のとおりの検診計画を立案した。

(実施期日)

昭和四七年四月三日から同月八日まで(午前九時から午後四時まで)

(対象者)

結核予防法四条三項の規定による(事業所・学校・施設及び小学校就学の始期に達しない乳幼児を除く。)一六歳以上の者全員

これらの特別住民健康診断の結果、骨関節結核の疑いをもたれた者らについては、さらに精密検査が行なわれた(精密検査を要するとされた者四七名、うち受診者三三名)が、新たな骨関節結核患者は一人も発見されなかつた(精密検査の結果判明したのは、変形性膝関節症二六名、肩関節周囲炎一名、ヘベルデン結節二名〔併病〕、右股関節強直一名、肘関節形成術後一名であつた)。

(四) 骨関節結核多発の終息

昭和四七年に入つてからの因島保健所管内における脊椎カリエス以外の骨関節結核の届出・登録は、同年二月に三、同年四月に二、同年五月に一であつたが、以後同四八年六月まで毎月○が続き、同年七月に一、同年一〇月に一という状態であり、同四七年六月以降骨関節結核の多発状況は終息したものと考えられた。

(五) 対策会議(第一回)

昭和四七年四月の特別住民健康診断の終了後、同年五月一八日、因島保健所において、広島大学医学部第二内科の西本教授、同学部整形外科の講師永山五哉、因島市医師会長宮地某、因島病院長石原貫一、寺上課長、大貫所長の六名により、第一回目の対策会議がもたれた。

(八) 実態調査

前記実態調査の実施要領については、西本教授らの意見に基づき、別紙資料1「調査実施要領」のとおりに定められた。すなわち、因島市に限らずその周辺地域(主に瀬戸田町)の登録されている骨関節結核患者も調査の対象に加え、治療中の患者らについては、別紙資料2「骨関節結核患者(登録患者)調査票」の用紙に、主治医が必要事項を調査して記入するという方法によつて、治療の終了している患者らについては、もよりの指定した医療機関(因島市では因島病院)の医師が、前同様の方法によつてそれぞれ調査し、すでに調査診断ずみの患者らについては、医療機関に存するカルテに基づいて所要事項を右調査票に記入し、胸部のエックス線写真がない等未検査の点があれば、改めて検査するというものであつた。

右調査票の内容については、別紙資料2のとおりである。

実態調査は、昭和四七年一〇月から同年一一月末まで、右要領により、因島市の骨関節結核登録患者七六名及び瀬戸田町の同患者九名を対象に実施された。

(一〇) 見舞金等の支給等

骨関節結核の多発の原因究明という面での結論は前記のとおりであつたが、会議の席上、患者らに対しては、福祉的な観点からの対策措置が講ぜられるべきであるとの意見が出され、これが容れられて、前記第二の二1(四)のとおり、見舞金又は弔慰金が支給され、医療費の負担がなされた。

第三  責任

一  はじめに

原告らは、請求原因4(四)ないし(七)において、広島県知事、因島保健所長が、本件集団発生に際し、結核の予防及びまん延防止のために、同(四)(4)記載の時期に同(3)記載のような内容の作為義務を負うに至つたにもかかわらず、これに違反し、何らの有効適切な措置を講じなかつた不作為により、本件患者らを骨関節結核に罹患させ、同患者らに損害を被らせたものであるとし、右知事、保健所長の当該不作為は違法であり、過失があるから、被告らは国家賠償法一条、三条に基づき右損害を賠償する責任を負う旨主張する。

本件患者ら(原告岡野トシエを除く。)がいずれも骨関節結核に罹患したことは前記第二の二のとおりであり、その原因として、右患者らがいずれも奥医院にリウマチ・神経痛等の診断の下に通院し、同医院で奥医師から患部関節に副腎皮質ステロイド剤の注射を打つ等の治療を受けた際、注射器具等の消毒不完全等のため、何らかの原因で、右器具若しくは注射液に結核菌が付着若しくは混入し、その関節注入によつて結核感染を起こした接種感染の疑いが濃厚なものと認められることは前記第二の四のとおりである。

このように、本件患者らが骨関節結核に罹患したのは、奥医院における奥医師の医療過誤がその直接的な原因となつているものと推認でき、広島県知事、因島保健所長が右罹患について直接的、積極的に関与したものとは認められないから、本来直接の加害者として同医師の不法行為責任が問われるべきものと解されるが、本訴においては、同医師の右責任は全く問われていない。

原告らは、本件患者らの骨関節結核の罹患について被告らの国家賠償責任を追及するところ、国家賠償法一条一項は、「国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。」と規定する。後記結核予防行政、医療行政上の職務を管理執行若しくは処理する広島県知事、因島保健所長が同条項の「国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員」に該当し、右知事、保健所長の職務に関連する不作為が同条項の「その職務」行為に該当することについては、特段異論はないので、本訴における国家賠償責任の有無をめぐつては、結局、右知事、保健所長の不作為の違法性及び過失の有無が主要な論点となる。

公務員の不作為について国家賠償法上違法であり、過失があるとされるためには、その前提として当該公務員に作為義務が存在しなければならない。右作為義務に違反して作為に出なかつたため損害が発生した場合、当該公務員の不作為が違法、過失との評価を受ける。したがつて、本訴においては、広島県知事、因島保健所長が本件集団発生に際し原告らの主張するような作為義務を負うに至つたか否か、これを負うとすれば、これに違反したか否かが検討されなければならない。

ところで、原告らの広島県知事、因島保健所長の作為義務に関する主張は、その内容が錯綜し多岐にわたつているうえ、その言い回しが多少冗長に流れている嫌いがあるので、これを整理し要約すると、概略次のとおりとなる。

まず、第一点は、広島県知事、因島保健所長は、左のとおり結核予防行政面において国家賠償法上の作為義務を負うに至つたにもかかわらず、これに違反し、本件患者らに損害を被らせたというものである。

すなわち、広島県知事、因島保健所長は、昭和四五年一月末若しくは同年二月初めころには、同年内における因島保健所管内の骨関節結核による公費負担申請若しくは新規登録患者数がはやくも三ないし四人(うち三人は本件患者である原告竹田ウメノ、亡村上ノブエ、原告石原猛であり、いずれも左膝関節結核に罹患し、肺結核の既往歴も合併症もなかつた。)に達し、骨関節結核の集団発生を客観的に疑うべき状況にあり、これを認知していたか、仮にそうでなかつたとしても、通常の注意を払つていれば十分にこれを認知し得たのであるから、その集団発生の何らかの共通の原因、たとえば感染場所・感染源等の探知を目標として、迅速に右患者らについて実態調査(右患者らの届出・登録カード、公費負担申請書類等の資料を整理し、家族検診、保健婦による家庭訪問指導を行ない、同一家族内での肺結核患者、既往歴の持主の有無、患者本人の肺結核の既往歴等の有無、発病に至る経過、受療状況等を問診により調査し、右患者らの治療に当たつた医師らと情報交換する等)をし、これを通じて右集団発生の実態の把握に努め、これら初期活動により、奥医院が感染場所であり、同医院での関節ステロイド注射が骨関節結核の発病に重要な関係を有することを突き止め、さらに同医院の医療従事者や通院患者らの定期外健康診断を実施し、カルテの調査をする等の措置により、感染源・感染経路を究明し、結核感染を受けた者、発病した者を発見してこれに治療を施し、その発病若しくは病状悪化を未然に防止するとともに、奥医師に対し診療行為の中止の行政指導をする等の措置を講じて、新たな感染者の発生を未然に防止すべき作為義務があるにもかかわらず、これに違反し、これを尽くさなかつたため、本件患者らの骨関節結核の感染、発病、病状悪化を招いたというものである。

第二点は、広島県知事、因島保健所長は、左のとおり医療行政面において国家賠償法上の作為義務を負うに至つたにもかかわらず、これに違反し、本件患者らに損害を被らせたというものである。

すなわち、広島県知事、因島保健所長は、昭和四五年一月以前から、奥医院においては、清潔保持が不十分で、衛生思想が欠如し、ステロイド注射が多用され、奥医師が言語障害に陥り、結核患者が同医院に通院し、看護婦見習が結核に罹患している等医学の常識では考えられない異常な実情が存していることを認知していたか、又は容易に認知し得る状況にあつたのであるから、的確に右事態の把握に努め、医療監視員をして同医院に立ち入り、その清潔保持の状況等を検査させ、同医師に対し必要な報告を命じ、施設の使用を制限若しくは禁止し、診療行為の中止の行政指導をする等適切な措置を講じて、同医院における同医師の診療行為により通院患者を結核に感染させる等の事故の発生を未然に防止すべき作為義務があるにもかかわらず、これを怠り、漫然放置したため、本件患者らの骨関節結核の感染、発病、病状悪化を招いたというものである。

二  結核予防行政と国家賠償

1  結核の集団発生下及びその前後の作為義務

まず、原告ら主張第一点のような結核予防行政面における国家賠償法上の作為義務を知事、保健所長が一般的に負うか否かが問われなければならない。

そこで、以下、結核及びその集団発生による損害の重大性に触れ、結核予防法二条に規定されている義務の趣旨並びに結核予防行政に携わる衛生行政機関の組織、任務、能力を明らかにし、前記作為義務の発生如何について検討する。

(一) 結核及びその集団発生による損害の重大性

前記第二の一の当事者間に争いのない事実、第二の一1、三3(一)、四4(一)の各認定事実、弁論の全趣旨を総合すると、左のとおり認められる。

以上のように、結核は、個人に害を与えるだけでなく、ひいては社会にも害を及ぼすものであり、とくに、結核が集団発生した場合に生ずる損害には個人的にも社会的にもきわめて重大かつ深刻なもめがあるといわなければならない。

(二) 結核予防法二条の義務

(1) 結核予防関係法規

日本国憲法二五条は、一項で、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と規定し、いわゆる国民の生存権を保障し、二項で、「国は、すべての生活部面について、……公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と規定し、右保障の実を挙げるため国に必要な衛生行政を要求し、これを受けて各種の公衆衛生関係の法規が制定されている。

現行の結核予防法(昭和二六年三月三一日法律第九六号、同年四月一日施行)は、公衆衛生の向上及び増進の一部を担う結核対策の基本法といえる。

同法二条で、(国及び地方公共団体の義務)の見出しを付けて、「国及び地方公共団体は、結核の予防及び結核患者の適正な医療につとめなければならない。」と規定し、いわゆる社会病としての結核の特殊性にかんがみて、前記目的達成のために努力することが国及び地方公共団体の包括的な義務であることを明らかにしている。

これらの諸規定は、結核の予防及び結核患者の適正な医療という目的達成のために努力することを国及び地方公共団体の包括的な義務とした二条を受けて、これをさらに具体化し、右目的達成にとつて重要な種々の局面における行政側の有効適切な施策対応を求めて、これに権限を付与し、若しくは行政上の義務を課すなどしたものである。

さらに、結核予防法は、国及び地方公共団体の右義務のみならず、一章総則の三条で、(医師等の義務)の見出しの下に、「医師その他の医療関係者は、前条に規定する国及び地方公共団体の行う業務に協力しなければならない。」と規定し、医師その他の医療関係者に対し、その職務の結核対策の上に占める重要性にかんがみ、国及び地方公共団体の行なう結核の予防及び結核患者の適正な医療に関する業務に協力すべき包括的な義務を課している。

この規定に基づいて、左記のとおり具体的な義務が定められ、一部罰則をもつて強制する。

これらの諸規定から明らかなことは、結核の予防及び適正な医療にとつて重要な場面においては、国民側に義務が課せられ、一部罰則をもつて強制されるということである。これが行政側の事務と関係する場合、国民側の義務に対応して、たとえば「都道府県知事は……することができる。」というように規定するなどして、行政側に権限を付与している。

なお、結核の予防に関しては、ひとり結核予防法のみに規定が存するわけのものではない。

地方自治法二条三項六号、七号には、普通地方公共団体のいわゆる固有事務として、保健衛生に関する施設を設置管理し、保健衛生に関する事項を処理することが規定されており、結核対策に関する当該地方公共団体特有の事項等も右固有事務に含まれるものと解される。

また、保健所法一条には、保健所は、地方における公衆衛生の向上及び増進を図るため、都道府県……が、これを設置する旨規定され、同法二条一〇号によれば、保健所は、結核の予防に関する事項について指導及びこれに必要な事業を行なうものとされている。

このように、地方公共団体の固有事務の適正な処理や保健所による指導及び事業によつても、結核の予防に資することは十分可能であり、右各規定の目的とするところでもあるものというべきである。

(2) 結核予防法二条の趣旨

前記のとおり、結核予防法は、国及び地方公共団体に対し結核予防につとめる包括的な義務を課し、国及び地方公共団体を中心とし、医師、国民等に協力させて、結核予防の目的の達成を図る仕組みをとつている。このことは、結核対策の困難性と重要度を示すとともに、国及び地方公共団体に対する期待の大きさを反映しているものともいえる。

結核予防法には、国及び地方公共団体が結核対策上とるべき具体的な事務がさしあたり網羅されているといえようが、前記のとおり、結核予防に関する事務は同法以外の法規に基づくものも存し、これらの事務の総合的な適正処理によつてよく結核予防の実をあげ得るはずのものであるから、結核予防法二条の国及び地方公共団体の結核予防につとめる包括的義務は、同法に具体的に規定された事務について妥当するのみならず、他の法規に基づいて結核予防のためにとられるべきあらゆる事務や施策についても妥当するものと解すべきである。

結核予防法は、結核予防のための具体的な事務について、一定の場合に行政側に権限を付与している(たとえば、五条の定期外の健康診断、一四条の定期外の予防接種、二八条の従業禁止、二九条の入所命令等)が、その趣旨は、結核予防上重要な局面において、結核対策の中心的立場にあるべき国及び地方公共団体に同法二条の義務を全うさせ、ひいては公共の福祉を増進させることを目的とするものと解される。したがつて、右権限は、右義務を全うするための手段であり、むしろ、それにかかわる行政側の役割の重要度をあらわすものといえよう。

もつとも、結核対策における行政側の役割の重要度は、権限規定の存否のみによつて測られるとは限らないものと思われる。前記のとおり、結核予防法二条の義務は、同法に規定された具体的な事務にとどまらず、それ以外の結核予防のためにとられるべきあらゆる事務や施策についても妥当するから、現実の結核状況の進展の具合によつては、権限規定の有無にかかわらず、行政側のとるべき事務や施策の重要度が高まる余地は十分に存するものといえる。なぜなら、結核は、いわば自然の脅威に類する伝染病の一種であり、集団発生のおそれがある等その伝播、まん延は条件次第で意外な展開をみせる場合も考えられないではなく、ことは国民の生命・健康という重大な法益に直接かかわつている以上、結核予防行政は、本来的に事態に即応した柔軟性を欠いてはならないからである。

もちろん、結核は、伝染病予防所定のコレラや赤痢等急性のいわゆる法定伝染病等と比べると、その疾病の性質上、伝染性や悪性度におのずと差異があり、このことは、結核予防法と伝染病予防法の各規定の仕方の違いにも反映している。すなわち、結核予防法では、「結核予防上(特に)必要があると認めるとき」(五条、一四条、二四条の二、二五条、三一条)、あるいは「結核を伝染させるおそれがある(著しいと認められる)」場合(二七条ないし三〇条)などに行政側に前記(1)のような権限を付与し、事務を行なわせるという規定になつているのに対し、伝染病予防法では、伝染病の流行(ある地域又は社会において、同じ疾患が明らかに普通以上に多発し、しかもそれが共通の原因又は伝播性の原因によつて起こつている事象)という異常事態を想定し、これに備えて「伝染病流行シ若ハ流行ノ虞アルトキハ」という要件の下に行政側に一定の具体的な権限を付与し、義務を課している(一五条一項、一六条ノ二第三項、一八条一項、二〇条等)ほか、伝染病予防上必要と認められるときは、たとえば市街村落の交通の遮断や集会等のために人民が群集することの制限・禁止等、行政側に大規模かつ広域的な予防措置を施行できる権限を付与する旨の規定(一九条)を設けているという具合である。このように、結核は、法定伝染病等と比べると、流行ないしまん延の危険性はそれほど強大、急激なものとはいえない。

ただ、前記(一)のとおり、結核は、頻繁ではないとはいえ、現実に集団発生し(とくに最近は接種感染の事例が目立つ。)、また、そのおそれがあるということを忘れてはならない。そして、結核の集団発生は、個人的にも社会的にもきわめて重大かつ深刻な事態であることに変わりはないのであるから、現実に結核が集団発生し、又はそのおそれがある場合には、行政側としては、これに適切かつ迅速に対応する必要は当然に存するものといわなければならない。

通常、一定の地域において結核が集団発生し、又はそのおそれが生じたような場合、行政側としては、定期外の健康診断及び予防接種を実施し、患者に対して従業を禁止し、結核療養所への入所を命じ、所定の物件の消毒等の措置を講ずる等結核予防法上の権限を活用して、結核の集団発生又はその拡大の防止のための対策を進めることとなろう。

しかし、たとえば、結核の集団発生の原因として、特定の医療機関の内部において感染を起こしている状況が疑われ、右医療機関に通院する患者らを中心とする地域住民に結核感染等の差し迫つた危険が生じたような場合には、結核の集団発生の共通の原因ないし感染場所・感染源。感染経路等を究明して(この場合、疫学的調査研究が有用である。)、家屋の消毒、患者の隔離、物件の消毒・廃棄等の措置により禍根を絶つことが結核予防の見地から不可欠な要請になるものと思われる。

もつとも、この場合、結核予防法等関係法規には、右原因等の究明のための調査活動の実施について、行政側に権限を付与する旨の直接具体的な規定は存在しない。だからといつて、国及び地方公共団体の結核予防法二条の義務が右の場合には免除若しくは軽減されるものとも考えられないところであり、行政側としては、結核予防のための種々の施策の合理的、積極的な遂行、さらには権限の適切な行使等によつて、右集団発生の共通の原因等を調査究明し、これに即応した有効適切な措置を講じて、右集団発生又はその拡大防止のために最善を尽くすことが要請され、当該局面では、右尽力こそが国及び地方公共団体の結核予防法二条の義務の内容となるものというべきである。

(三) 衛生行政機関の組織、任務、能力

国及び地方公共団体のために、これまで述べてきた結核予防に関する事務を含めた公衆衛生に関する事務を掌る行政機関は、国においては主に厚生省(厚生大臣)であり、地方公共団体においては主に都道府県知事、市町村長、保健所、保健所長である。

地方公共団体のうち都道府県については、知事の権限に属する衛生事務を分掌する内部部局として、都道府県の人口規模に応じて、衛生局、衛生部、又は厚生労働部が設置されている(地方自治法一五八条一項)。知事は、都道府県のいわゆる固有事務、団体委任事務、その他の行政事務に属する衛生事務を管理執行するほか、機関委任された国の事務に属する衛生事務を管理執行する。

保健所長は、保健所の右各業務について、総括者若しくは一職員としての職責を担うほか、知事らの職種に属する保健所法二条各号に関する行政事務(知事らの管理執行すべきいわゆる団体委任事務、機関委任事務)のうち保健所長に委任された事務(同法三条)及び種々の衛生関係諸法規が直接保健所長が処理すべき行政事務として規定した事務(たとえば、結核予防法四条二項、三項、一一条一項、一三条三項、二二条ないし二四条、二四条の二、二五条、予防接種法三条、性病予防法六条、七条等)の処理に当たる。

知事らの管理執行すべき衛生行政事務は通常その相当部分が保健所長に委任されているので、保健所長は、当該保健所の所管区域内の衛生行政事務及び衛生業務の大半を掌理することになり、知事らはその保健所長を指揮監督する(地方自治法一五四条、一五六条)。このことは、結核予防に関する衛生行政事務及び衛生業務についても、ほぼ同様である。

ところで、結核の集団発生の際における衛生行政機関の結核予防行政のあり方については、以下のとおりである。

右当事者間に争いのない事実、前記(二)及び本項におけるこれまでの各説示、弁論の全趣旨を総合すると、以下のようにいうことができる。

国及び地方公共団体は、結核予防法二条により結核の予防につとめる包括的義務を負い、これを全うするために、知事、保健所長は、種々の行政事務や業務を掌る職責を担い、一定の場合には権限をも付与されている。

このうち、保健所長は、罰則付きの届出義務に基づく医師からの結核患者の届出、病院の管理者からの結核患者の入退院の届出、結核患者からの公費負担申請、健康診断及び予防接種の各実施者からの所定事項の通報・報告の受理、保健婦の家庭訪問指導の際に得た情報等により、常時、所管区域内の結核患者の発生の状況や数、結核登録患者の動向、健康診断等の状況や結果等を知り得る仕組みとなつている。そして、保健所長は、作成を義務付けられている結核登録票のほか、厚生省が五年ごとに実施している結核実態調査、毎年末に作成報告する結核登録者に関する定期報告、県単位で作成される衛生統計年報等の各種資料により、全国、県あるいは管内における結核のまん延その他の結核状況を調査し把握し得る立場にある。

保健所は、衛生事務のみを担任する純然たる衛生機関であり、国民に直結して衛生指導や衛生活動を行ない、もつて公衆衛生の向上及び増進を実現することをその使命とする衛生行政の第一線機関である。保健所長は、保健所を総括する者として、自らの知識経験(保健所長は医師その他所定の資格を備えた技術吏員である。)や保健所の人的物的施設(保健所には保健婦、エックス線技師等専門的技能を有する職員が置かれている。)を活用し、必要があれば、上級行政機関である知事(県衛生部)や厚生省の指示・協力を得て、結核予防のために専門的、組織的に対策を講じ、活動することが可能である。

また、知事は、衛生事務を分掌する内部部局を擁して結核予防行政に当たつており、保健所長に対し右行政事務の相当部分を委任し、これを指揮監督する立場にあり、結核予防行政に関する情報や資料は最終的に知事の手元に集中するような仕組み、取扱いになつている。

以上のような知事、保健所長の結核予防行政上の職責、権限、結核状況掌握の仕組み、保健所等の人的物的施設ないし専門的、組織的な活動能力等に照らすと、ある一定の地域において結核が集団発生し、又はそのおそれがある場合で、しかも、その原因として、特定の医療機関の内部において感染を起こしている状況が疑われ、右医療機関に通院する患者らを中心とする地域住民に結核感染等の差し迫つた危険が生じたような場合には、右地域を管轄する保健所長、これを指揮監督する知事において、右集団発生又はその拡大の防止のために、その権限の適正な行使及び業務の合理的、積極的な遂行並びに保健所等の人的物的施設の活用等によつて、右集団発生の共通の原因等を調査究明し、これに即応した有効適切な措置を講ずることは、十分に可能と考えられ、また、要請されて然るべきものである。

右のような結核の集団発生又はそのおそれのある場合、通常、地域住民としては、個人的な注意その他自力により、結核の感染等の被害を防止、回避することは不可能か、著しく困難であるものというべきであり、地域住民において、知事、保健所長が右のような措置に出ることを期待するのも、無理からぬところである。

(四) 作為義務の発生

前記(一)ないし(三)において詳述したような結核及びその集団発生による損害の重大性、結核予防法二条による国及び地方公共団体の結核の予防につとめる義務の趣旨・内容、衛生行政機関の組織・任務・能力、これに対する国民の期待等にかんがみると、ある一定の地域において特定の医療機関を感染場所として結核が集団発生し、又はそのおそれがあり、右医療機関に通院する患者らを中心とする地域住民に結核感染、発病、病状悪化の差し迫つた危険が生じたが、右地域住民としては自力では右危険を認知して防止することが不可能か、又は著しく困難であるため、これを放置するときは、右地域住民の結核感染、発病、病状悪化による生命・身体に対する危害の発生が相当の蓋然性をもつて予測することができる状況の下において、右状況を知事、保健所長が容易に知ることができる場合には、条理上、知事、保健所長において、その権限を適正に行使し、かつ、その業務を合理的に遂行し、右集団発生又はそのおそれの共通の原因ないし感染源・感染経路等を調査究明する等したうえ、感染源を除去ないし無害化し、感染経路を遮断する等の措置を講じて、新たな結核の感染の発生を未然に防止し、他方、すでに結核に感染した者、発病した者に対して化学療法等の治療を施し、若しくは施させる等の措置を講じて、結核の発病、病状悪化を未然に防止すべき作為義務を負うに至るものと解するのが相当である。

そして、知事、保健所長において、右作為義務を負うにもかかわらず、これを怠り、地域住民に結核感染、発病、病状悪化による損害を被らせたときは、国家賠償法一条一項の違法、過失との評価を免れないものというべきである。

2  本件集団発生下及びその前後の作為義務

それでは、本件集団発生の具体的な事実関係の下において、広島県知事、因島保健所長は、前記結核予防行政面における国家賠償法上の作為義務を負うのか否か、負うとすれば、その時期、内容如何について、以下詳しく検討する。

(一) 作為義務の主体

本件集団発生下において、前記作為義務の主体となつて然るべき立場にあるのは、広島県知事、因島保健所長であるところ、その管理執行若しくは処理すべき事務ないし業務の内容等については、おおむね前記1(二)において述べたことが当てはまるけれども、さらに、その人的物的施設面を含めて具体的に述べると左のとおりである。

<証拠>によれば、被告県では、知事の権限に属する衛生事務を分掌する内部部局として衛生部が設置され、昭和四五、六年当時、同部内には医務課・公害課・環境衛生課・予防課(昭和四七年四月公衆衛生課と改称)・薬務課・県立病院課の六課が置かれ、医務課では医療法に関すること、保健所・保健婦に関すること等の事務を、予防課では結核予防法に関すること等の事務をそれぞれ分掌していたこと、当時、広島県内には、保健所を設置する市である広島市及び呉市を除く地域に因島保健所を含む二〇の保健所が設置され、知事の権限に属する諸々の衛生事務が各保健所長に委任されていたこと、結核予防法に基づく知事の権限のうち各保健所長に委任された事務は、五条の規定による定期外の健康診断の実施、一一条(二〇条において準用する場合を含む。)の規定による通報及び報告の受理、一四条の規定による定期外の予防接種の実施、二八条の規定による従業禁止、二九条の規定による入所命令、三〇条の規定による家屋の消毒その他の措置命令及び措置、三一条一項の規定による物件の授与の制限・禁止及び消毒又は廃止の命令並びに消毒及び廃棄の措置、三二条一項の規定による質問及び立入調査、三四条一項の規定による結核患者の医療費の負担、三五条の規定による命令入所患者等の医療費の負担であつたこと、各保健所長は、知事から委任されたこれらの事務を処理し、知事の指揮監督に服するが、委任された事務であつても、事案が重要又は異例と認められる場合、事案について疑義若しくは紛議があり、又は紛議を生じるおそれがある場合には、その処理について、あらかじめ知事の指揮を受けなければならないことになつていたこと、広島県立因島保健所は、昭和三八年四月一日設置され、因島市(面積38.79平方キロメートル、右当時の人口四万一五〇二人)を所管区域とし、昭和四五、六年当時の職員構成は、所長(医師)一名、保健婦三名、エックス線技師・栄養士・試験検査技術者・防疫結核担当者・食品衛生監視員・衛生統計担当者各一名・環境衛生業務職員三名(課長一名、監視員二名)、総務事務職員四名(課長一名、担当者三名)、自動車運転手一名の合計一八名であつたこと、当時、同保健所には総務課・環境衛生課・予防課の三課が置かれて各所管事務を分掌し、そのうち結核予防に関する事務は予防課において分掌し、所長・保健婦・エックス線技師等合計六名がこれを担当していたことが認められる。

(二) 作為義務の発生の有無

(1) 危険の存否等

前記第二の三、四のとおり、本件集団発生はいわゆる集団発生と呼ぶにふさわしい骨関節結核の異常な多発であり、右集団発生下において骨関節結核に罹患した者らのうちの大部分を占める本件患者らの発病はいずれも奥医院における医療行為の際の接種感染によるものとの疑いが濃厚である。さらに、昭和四四、五年当時、同医院にはその評判を聞いて本件患者らを含む多数の患者らが通院していたが、同医院においては、その治療の際に、免疫抵抗を低下させる等の副作用のある副腎皮質ステロイド剤の局所注射が多用され、その使用時に要求される厳重な無菌操作、注射器具等の消毒等が不完全であるうえ、肺結核患者も治療のため通院し、看護婦見習の竹原正枝に結核の疑いが存する等、ステロイド注射の際、何らかの原因で、注射器具や注射液に結核菌が付着若しくは混入し、その関節注入によつて結核感染を起こし得る余地が存していた。

このように、多数の通院患者に結核の接種感染を起こし得る余地が存する状況下において反覆継続されていた奥医院での医療行為の実情に徴するときは、同医院に通院して治療を受け、又はその可能性のあつた地域住民のうち、結核の未感染者に対しては感染の、既感染未発病者に対しては発病の、既発病者に対しては病状悪化の差し迫つた危険が存したものといわなければならない。

そして、これらの危険は、別紙一覧表一「結核登録及び公費負担状況」、同一覧表九「奥医院通院治療及び発病時期・部位別状況」、前記表三六、三七に照らすと、遅くとも、昭和四五年の最初の骨関節結核の新規登録患者である亡村上ノブエが右登録をした同年二月三日直前ころには、すでに存していたものと認められる。なお、奥医師が同年一一月二四日死亡し、奥医院はそのころ閉院されたことは前記のとおりであるから、右危険のうち、結核未感染者に対する同医院での感染の危険に限つていえば、そのころに消滅したものといわざるを得ない。

ところで、通常、治療を受ける患者がその医療機関における薬物使用、消毒方法、医療従事者の健康管理等の当否について自ら正確に判断し得る立場にあるとは考え難い。本件集団発生当時奥医院に通院し、又はその可能性のあつた地域住民が前記ステロイド剤の副作用やその局所注射時の無菌操作の必要性等いわば医学の専門知識に属する事柄を知り、同医院での医療行為の問題性を認識し得る状況になかつたことは前記第二の二1(一)認定の本件患者らの同医院への通院状況からも容易に推認できる。このほか、看護婦見習に結核の疑いがあつた事実は後日判明したもので、当時は知り得るはずもなく、また、結核の感染、発病等の判定は専門医による正確な診断による以外になく、さらに、患者ら同士の情報交換にも限界がある等の事情からすると、右地域住民としては、自力で奥医院における前記危険を認知してこれを防止することは不可能か、又は著しく困難であつたものというべきである。

(2) 危険の知得の可否

そこで、問題は、広島県知事、因島保健所長が、本件集団発生当時、前記の危険を容易に知り得たのかどうか、知り得たとすればその時期はいつかということになる。

(イ) 患者数の異常性の認知

原告らは、広島県知事、因島保健所長は、昭和四五年一月末若しくは同年二月初めころには、同年内における因島保健所管内の骨関節結核による公費負担申請若しくは新規登録患者数がはやくも三ないし四人に達し、骨関節結核の集団発生を客観的に疑うべき状況にあつたから、これを認知していたか、又は認知し得た旨主張する。

前記第二の五2(二)のとおり、現実には、因島保健所の永田所長は、昭和四五年四、五月ころまで、骨関節結核の新規登録患者数について何ら異常性を認知することもないままに経過していたのである。

前記一覧表一「結核登録及び公費負担状況」並びに表三六によると、因島保健所管内において、昭和四五年二月中に骨関節結核の新規登録を経た患者は三人、すなわち本件患者である亡村上ノブエ(同月三日登録、左結核性膝関節炎)、原告竹田ウメノ(同月九日登録、左膝関節結核)及び本訴外の患者一人(登録日、届出病名はいずれも不明)であり、同年一月中に骨関節結核の医療が開始された患者は原告竹田ウメノ(同月九日開始)、亡村上ノブエ(同月一三日開始)及び原告石原猛(同月二八日開始)の三人(右本訴外の患者一人の医療開始年月日は不明)である。

原告らの主張する三ないし四人とは右の原告竹田ウメノ、亡村上ノブエ、原告石原猛及び本訴外の患者一人を指すものと解される。ところで、弁論の全趣旨によれば、結核患者による医療費の公的負担申請は通常当該患者の届出・登録と相前後してなされ、患者の利益のために右申請の日から現実に病院で結核の医療が開始された日まで遡つて医療費が支給されるのが通常の扱いとなつており、保健所が結核医療の開始を知るのは結核の新規登録のころであると認められるので、永田所長が右四人の患者の結核医療の開始を知つたのも各患者の前記新規登録のころと推認できる。

そうすると、永田所長が昭和四五年に入つて骨関節結核患者の発生を知るのは、同年二月上旬、すなわち亡村上ノブエ及び原告竹田ウメノの新規登録のころであるということができ、同月末には本訴外の患者一人が新規登録しているので、同所長が骨関節結核の新規登録患者が三人に達したことを知り得るのは遅くとも同月末ころといえる。そして、右患者が四人に達したことを知り得るのは、同年三月一一日の原告石原猛の新規登録(左膝関節結核)がなされたころといえる。このように、因島保健所の永田所長及び同所長の報告があれば同保健所管内の結核事情を知り得べき広島県知事は、原告らのいう昭和四五年一月末の時点では骨関節結核患者の発生を知り得ず、同年二月上旬の時点でも二人の患者の発生を知り得たにとどまる。

それでは、右永田所長らは、同年二月ないし三月の時点(骨関節結核の新規登録患者が三ないし四人となつたところ)において、右患者数を異常に多いと認知し得たといえるであろうか。

確かに、表三六によると、昭和四五年二月の結核の新規登録患者数は、全結核一〇、肺外結核四、脊椎カリエス以外の骨関節結核三であり、前記第二の三3(一)のとおり、結核類別間の通常の構成比率は右三者についておおむね一〇〇対一〇対一であるから、同月における脊椎カリエス以外の骨関節結核の新規登録患者数の全結核のそれに対する比率は、通常の比率に比べて極めて高いといえ、さらに、因島市の過去の例と比較しても、昭和四三年及び同四四年の二年間において一か月に三人もの骨関節結核の新規登録がなされたことは一度もなく、せいぜい一人止まりであり、年間の右新規登録患者の合計数においても、昭和四三年四人、同四四年二人を数えるにすぎず、前記三人という数値は過去のほぼ一年間の合計値に匹敵するものといえる。そして、これに昭和四五年三月さらに一人の骨関節結核の新規登録が加わるのである。このことからすると、昭和四五年二月に骨関節結核の新規登録患者が三人も出た時点、若しくは同年三月に前月分とあわせて右患者が四人に達した時点において、保健所長としては、その数値を異常と認知することができたはずであるといえなくもない。

しかしながら、別の観点に立つと、骨関節結核の新規登録が一か月間に三人、若しくは二か月間に四人という数値は、過去二年の各年間の新規登録患者数の範囲にとどまつており、一か月若しくは二か月の間にその年間全部の登録が集中することも統計上あり得ないともいい切れず、また、結核類別問題の比率における全国平均のそれとの大幅な相違の点についても、その数値を把握する期間がわずか一、二か月であつてみれば、そのようなことも統計上たまたま起こることがないわけではないともいえよう。

そのほか、前記骨関節結核の発病病理に関する医学的常識の内容、当時骨関節結核のみの多発という事件の報告例が過去全く存しなかつたこと、あるいは、保健所長が届出によつて初めて結核患者の発生を知るという立場の受動性等をもあわせ考慮すると、当時の保健所長の地位にある者において、通常、前記状況下で骨関節結核の新規登録患者が三ないし四人に達したときに、右患者数を異常と認知し得ることが容易であるとまではいい難いのである。

ちなみに、表三六によると、因島市の骨関節結核の新規登録患者数の推移は、昭和四五年二月三人、同年三月一人、同年四月四人、同年五月、六月、七月各一人、同年八月九人となつているが、前記岩崎龍郎氏は、その証言において、これらの数値に対し疑問を持つべき時点について、同年二月に三例出た時点で非常に明敏な者ならば変だと疑い、さらに四例出た時点で調査の必要を感じるであろう、同年八月に九例が出た時点では事態の異常性は決定的であり、このときを見逃せば怠慢のそしりを受けても仕方がないとの見解を示している。

以上の次第であるから、広島県知事、因島保健所長が、原告ら主張の昭和四五年一月末若しくは同年二月初めころの時点においてはもちろん、因島市の同年中の骨関節結核による公費負担申請若しくは新規登録患者数が三人に達した同年二月末ころ、四人に達した同年三月一一日ころの時点においても、骨関節結核の患者数が異常であることを容易に認知し得たものとはいい難い。

ましてや、右の各時点においては、前記第二の五認定の事実から明らかなように、広島県知事、因島保健所長は結核の接種感染の危険を伴つていた奥医院における医療行為の実情を全く知らなかつたのであるから、右知事、保健所長らが、当時同医院の医療行為に関連して地域住民に前記(1)のような結核感染等の差し迫つた危険が生じたことを容易に知り得たとはやはり認めることができない。

(ロ) 対応措置の指針

前記第二の五2(二)のとおり、永田所長は、昭和四五年四、五月ころ、骨関節結核の新規登録患者数が多くなつていることに気付き、同年初めからの合計が七、八人に達していることを知るに至つており、以後その届出状況に注目するとともに、その通常の発病病理と頻度からして、多数の肺結核患者が潜在しているのではないかと考えて、とりあえず、例年秋に行なわれる因島市長による一般住民の健康診断の結果を待つことにしたというのである。

<証拠>によれば、中川喜幹氏は、昭和二二年二月以降東京都衛生局若しくは都内各保健所に勤務し、同四〇年には都衛生局予防部予防課長として後記新宿赤十字産院事件においてその原因究明と患者救済に当たり、その後、同四一年一二月本郷保健所長、同四三年一二月都衛生局予防部長、同四七年七月同公衆衛生部長、同五一年八月同技監を歴任し、同五四年以来財団法人結核予防会評議員の立場にあるが、同氏は、右証言において、昭和四五年四、五月当時の因島市の結核登録の状況下では右の永田所長の考え方も是認し得るとしながらも、本件集団発生の話を最初に聞いた際には因島市周辺に二、三十年前に結核のまん延でもあつたのかと考えたと述べており、同月ころに永田所長が骨関節結核患者が多くなつているのに気付いたのはそれでよいとしても、所管区域内における過去の結核のまん延状況等を調査する等の方法により地域の結核事情の特性の把握に努め、全国の水準と比較する等の作業を行なうとともに、患者らの既往歴等に注目して、個々の患者に対する面接や医療機関からの意見聴取を行ない、結課論かも知れないが、患者らの大部分について肺に結核病変が存在しないことを知るに至れば、その発病が通常の病理によるのではないと疑う一つのきつかけになつたのではないかと述べている。

また、前記岩崎龍郎氏は、その証言において、昭和四六年末か同四七年初めころ、読売新聞の記者の訪問を受けて、本件集団発生を初めて知つた際、これは人為的な事件であり、自然発生によるものではないとの感じを受けた旨述べている。

さらに、第二の四1のとおり、前記大谷清医師は、脊椎カリエス以外の骨関節結核のみの多発というような事態は臨床上あり得ないことであり、むしろその診断自体の方を疑うべきであるとしており、前記岩崎氏も、その証言において、骨関節結核のみの多発は自然感染ではあり得ないことであるから、保健所としては、その診断自体を疑い、本当に骨関節結核か否かを確認することも、とるべき施策の一つであるとの見解を示している。

これら結核若しくは公衆衛生の専門家というべき立場の人々の見解は永田所長を除いては、いずれも本件集団発生の後又はその終息期におけるものであり、必ずしも同所長の置かれたと同一の状況下における見解ではないが、それぞれの立場によつて観点が異なり、保健所長のとるべき対応措置の指針を多方面から示唆するには有益である。

以上の各見解を参考にして、骨関節結核が多発した場合に、保健所長において合理的にとるべき発想と措置として考えられるものを網羅的に列記すると、概略左のとおりといえよう。なお、いずれも、骨関節結核の通常の発病病理と頻度を前提に、骨関節結核のみが自然に多発するはずはないという認識の点で一致している。

① 骨関節結核のみが自然に多発するはずはないので、医療機関による骨関節結核との診断自体を疑い、個々の患者らに対する十分な検診を行なうことによつて、正確な病名の確認に努める。

② 現に存する骨関節結核患者の数と所管区域内の他の結核患者数との比率や罹患率等を算出し、過去の数値との比較や全国の水準値との対比等によつて、右骨関節結核患者数の異常性の有無や程度を正確に把握する。

③ 骨関節結核のみが多発するはずはないので、その多発が現実である以上、通常の比率に見合う肺結核等他の結核も多発しているはずであると想定し、これら潜在するはずの多数の肺結核その他の結核患者の発見に努める。

④ 骨関節結核のみが多発するはずはないところ、その多発が現実である場合、通常の比率に見合う肺結核等他の結核も多発しているはずであるが、これらの多発が顕在していない以上、あくまでも自然感染を前提に、その発病原因、たとえば、過去に結核の大まん延があり、そのとき多数の人々が感染したものの発病にまでは至らず潜伏し、時を経て発病し始めたとか、患者らに共通の独特の体質や特異な条件が重なつたために発病が重なつたとか等を種々想定し、過去の結核のまん延状況を調査し、若しくは個々の患者の特徴や地域の特性等の把握に努め、原因の究明に努める。

⑤ 骨関節結核のみが多発するはずはないところ、その多発が現実である場合、通常の比率に見合う肺結核等他の結核も多発しているはずであるが、これらの多発が顕在していない以上、自然感染によるものであるはずがなく、人為的な事件とみて、その原因の探究に努める。

骨関節結核が多発した場合、保健所長において、右①から⑤までの各発想と措置を同時に並行してとることができれば、ある意味で理想的といえるのかも知れない。しかしながら、限られた人的物的施設の下では、事柄の重要度や蓋然性の高低にかかわりなく、すべてに同時同程度の労力を注ぎ込むことは、原因究明の速度、効率、経費等の面からみて、必ずしも賢明な方策とはいえない。どのような措置をどのような時期にとるべきかは、保健所長の置かれた具体的な状況に左右される。とくに、所管区域内の結核の発生状況については、保健所長は、通常その届出・登録によつてこれを知り得、それ以外はすべていわば手探りの状態から始めることになるのであるから、原因調査究明活動がある程度試行錯誤の形をとることはやむを得ないところであり、見込み違いや無駄若しくは時間の浪費は避け難いものといわなければならない。

したがつて、後日事態のすべてが明らかになつた時点において、当時保健所長のとつた措置に誤りや難点が指摘できるからといつて、直ちにその誤りや難点がすべて当時においても明らかであつたということにはならない。もつとも、保健所長としては、後日の批判に耐え得るよう、可能な限り、事柄の重要度や蓋然性の高低の判断に誤りのないように努める必要があるのは当然である。

(ハ) 永田所長の対応措置の当否

(a) 昭和四五年四、五月当時

前記のとおり、永田所長は、昭和四五年四、五月ころ骨関節結核の新規登録患者数が合計七、八人に達した時点において、前記(ロ)の③の発想を持つたものの、他の同①、②、④、⑤に類する発想に思い至つた形跡はない。この点はどのように評価すべきであろうか。

呼吸器系の結核に関する研究を専門とする広島大学医学部の西本教授は、昭和四七年初めころ、広島県衛生部予防課の寺上課長から、本件集団発生に関して、前記表四三の肺外結核の部位別発病数一覧表等の資料を示され、意見を求められた際、骨関節結核の発病病理からすると、因島には他にも結核の潜在患者が多数いるかも知れないので、早急に住民一般の健康診断が必要である旨の見解を述べたこと、右西本教授の見解は、その後における広島県衛生部及び因島保健所の、本件集団発生に対処するにあたつての基本的な方針となつたが、因島市の特別住民健康診断の結果、他に結核患者がさほど発見されなかつたことによつて、右方針は初めて軌道修正され、骨関節結核に罹患した患者らそのものについての実態調査が開始されるに至つたことは、前記第二の五3(二)ないし(八)のとおりである。

このように、すでに骨関節結核登録患者が相当数(前記表四三によれば、西本教授に示された一覧表には、結核の発病部位のうち関節については、昭和四五年二四、同四六年五三となつている。)に達していた昭和四七年初めころにおいて、結核の専門家がまず前記(ロ)の③と同様の見解を示し、その見解が特別健康診断の結果否定された段階において、初めて同①、④、⑤に類する他の発想と措置の可否について検討が開始されたことは、骨関節結核の多発という事態における原因究明の困難さを物語るとともに、当時としては同③の発想が比較的受け入れられやすかつたことの証左とも解される。

そこで、まず、前記①の発想と措置の可否についてであるが、結核予防法二二条一項によれば、「医師は、診察の結果受診者が結核であると診断したときは、二日以内に、その患者について省令で定める事項を、もよりの保健所長に届け出なければならない。」とされ、患者らが同法三四条一項により医療費の二分の一について公費負担の申請をする場合、申請書には、同法施行規則二三条二項により、所定の様式に基づく医師作成の診断書並びに骨関節結核のときは骨及び関節のエックス線直接撮影写真であつて申請前三月以内に撮影したものの添付が義務付けられ、同法三四条三項によれば、右申請がなされると、保健所に置かれた結核診査協議会(結核に関する専門家をもつて組織される。)の意見をきいたうえで、負担するか否かが決定されることとなつている。このように、骨関節結核の診断がなされると、医師には、届出義務が課され、公費負担申請の際にその診断の根拠の提出を要求され、結核診査協議会の審議も受けるのであるから、制度上からも、その診断は通常かなり慎重になされるのではないかと考えられ、さらに、結核診査協議会を通過すれば、その診断は確実なものと考えられたとしても不思議ではない。これに加えて、前記別紙一覧表一「結核登録及び公費負担状況」をみると、昭和四五年四月末までに骨関節結核の新規登録がなされたのは、本件患者らのうち、亡村上ノブエ、原告竹田ウメノ、同石原猛、同村上シズエ、同川本勝、同波戸岡義明、同岡野孝子の七名であるが、その届出をした医師は、亡村上ノブエと原告岡野孝子が共通であるほかは別人であつて、六人に及び、その所属病院も五病院にわたつている。すなわち、右新規登録患者らの大半が別の病院において別の医師により、それぞれ別個に骨関節結核との診断を受けていることになる。

これら制度上の問題や届出医師が別人であること等からすると、元来結核の診断自体慎重になされるものであるうえ、六人の医師若しくは五つの医療機関において同時期に誤診をするとは考え難いから、永田所長が医療機関による骨関節結核の診断自体について現実に右のような検討を加えたかどうかとは別に、客観的にみても、因島保健所管内における昭和四五年四、五月ころの状況下では、保健所長にとつて、直ちにこの①の発想と措置をとることが容易であつたとはいい難い。

次に、前記④及び⑤の発想と措置の可否についてであるが、右各発想はそれぞれ前記中川及び岩崎各氏の発想に近く、いずれもまことに合理的なもので、仮に右④の発想と措置がとられておれば、何らかの契機により患者らの共通点が浮かび上がり、かなり早期に本件集団発生の真相に肉迫できたかも知れず、また、右⑤の発想と措置は、本件集団発生の真相を解明するのに最も適切なものであつたといえる。

前記③の発想と前記④、⑤の発想とを対比して分析してみると、前者は、骨関節結核の通常の発病病理や頻度とその新規登録患者数の過多とを前提に、現実にはこれに比率的に見合う程度に達していない肺結核等全結核の新規登録患者数の過少の方に疑問を投げ掛けるという思考経路の結果であるのに対し、後者は、骨関節結核登録患者数と全結核登録患者数の不均衡という現実を前提に、通常の発病病理や頻度に立脚した常識の枠内における例外的原因(④の発想)若しくはその常識から脱却した分野での事象(⑤の発想)を想定するという思考経路の結果であるといえる。これを極論すれば、前者は、従来からの常識にあくまでも添つた、あるいは、とらわれた発想であるのに対し、後者は、常識にこだわらない発想であるともいえよう。

この④、⑤の各発想と措置の可否については、前記のとおり広島大学の西本教授においても本件集団発生の終息期にあつた昭和四七年の段階ですら右各措置を思い至つた形跡がないのであり(<証拠>によれば、西本教授は、結核の集団発生の事件については書物の上での知識が存するのみで、これまで直接にその調査等に関与した経験はなかつたことが認められる。)、むしろ公衆衛生、結核に関し広汎な知識を有し、現実の結核の集団発生事件に関与した貴重な経験を持つ前記中川氏、岩崎氏であるからこそ、直ちにこのような柔軟な発想が可能であつたともいい得るのであつて、昭和四五年当時右各発想が一般的に容易に受け入れられ得るものであつたかどうかは疑問である。当時の骨関節結核の発病病理と頻度に関する常識からすれば、前記西本教授らがそうであつたように、通常保健所長としては、前記③の措置をとり、その結果肺結核等の潜在患者が存在しないことを確知した段階で初めて、同④、⑤の発想に赴くという順路をたどるのが自然の成行ではないだろうか。

したがつて、骨関節結核は慢性の経過をたどる疾病であり、それ自体が伝染することはないとの認識の下において、過去全く前例のない骨関節結核の多発という事態に直面した保健所長に対し、そのごく初期の段階で、その知識・経験面では我が国有数ともいうべき結核若しくは公衆衛生の専門家が後日指摘する従来の常識とは異質な発想及びこれによる措置を直ちに要求することは、難きを強いるものとの感を拭えない。

以上の次第であるから、永田所長が昭和四五年四、五月ころ前記③の発想は持つたが、同①、④、⑤の発想に至らなかつたとしても、当時としてはやむを得なかつたものというべきである。

しかし、永田所長が前記②の措置をも全くとらなかつた点については、いささか解せないものがある。同所長は、昭和四五年秋の因島市長による一般住民の健康診断を待つている間、さらに、同年五月、六月、七月といずれも一名ずつの骨関節結核患者の新規登録がなされていく状況下においては、職務上少なくともその問題性の有無、程度等に関する調査検討くらいに着手することが望まれるものと考えられ、この点の懈怠が後日の対応の大幅な遅延につながつたものと解される。

ところで、永田所長が前記③の発想は持つたものの、約四か月後の一般住民健康診断の結果を待つこととした等その後の措置に迅速性が感じられない点はどうであろうか。たとえば、多数の肺結核患者が潜在するのではないかと思つた以上、直ちに健康診断を実施することはできなかつたのか。

この点については、やはり骨関節結核が潜伏期の長い慢性疾患であり、直接の伝染の危険性もあまりなく、当時登録患者数のうえでは、伝染性の強い肺結核はあまり現われてきていない等の点に徴すれば、永田所長が当時の事態を今ひとつ緊迫感をもつて受け止められなかつたとしても、致し方ないところかも知れない。

また、<証拠>によれば、昭和四五年当時、定期の健康診断は、事業者、施設の長、市町村長等の実施責任者が民間の検診団体や各保健所に委託して実施するのが普通であり、委託先が各保健所である場合は、広島県内の二〇の保健所はレントゲン車を保有していなかつたため、広島県衛生部に対し当時二台しかないレントゲン車の派遣を要請し、これを受けて、同衛生部では、各保健所に毎年一月その年の実施計画の提出を求めて、各保健所間の調整を図り、その四月から配車していたことが認められる。この事実によれば、県衛生部から派遣されるレントゲン車を必要とする健康診断の実施については、かなりの準備期間を要するものと推認できる。仮に、緊急事態の場合他に優先して配車を求め得るにしても、前記骨関節結核の登録患者数が七、八人になつた時点で、直ちに他の一九の保健所の既定の健康診断に優先する事態であり、その実施計画の組替えを必要とするとの判断が、当時の県衛生部において容易になし得たかどうかは必ずしも明らかではない。

その他、当時として、保健所長が一般住民の健康診断を必要と考えた場合に、どの程度の期間内に、どの程度の措置がとれるのか等について、特段の主張・立証もないので、結局のところ、永田所長が前記健康診断の結果を待つ態度に出たことが直ちに不当であるとも判断し難い。

なお、昭和四五年五月一三日前記竹原正枝が結核の疑いの濃い状態で死亡し、同月一九日家族検診が実施されたことは前記第二の四3(三)認定のとおりであり、原告らは、被告らの主張に対する反論1(四)において、永田所長は右竹原を結核患者と認知しながら、同女が看護婦見習として公衆に結核を伝染させるおそれのある業務に従事する立場にあつたことに思い至らず、その後も奥医院に対し何らの適切な措置もとることなく放置した旨主張するけれども、因島保健所において、当時、同女が奥医院において看護婦見習をしていたことがあるとの事実を知り得る状況にあつたことを認めるに足りる証拠はないので、右主張は採用できない。

(b) 昭和四五年九月当時

永田所長が昭和四五年の秋の一般住民健康診断の結果を待つ間、前記表三六のとおり、因島保健所管内における骨関節結核の新規登録患者数は、同年五月から同年七月まで月々一人であつたのが、同年八月突然九人となり(同月の全結核の新規登録は一二人にすぎない。)、同年に入つてからの右新規登録患者数は合計二〇人となつた(肺外結核は二九人、全結核は八七人である)。前記第二の五2(二)のとおり、永田所長は昭和四五年四、五月以後骨関節結核の届出状況に注目していたというのであるから、骨関節結核の新規登録患者数が同年五月から同年七月まで月々一人ずつであつたのが、同年八月だけで九人に及んだという、その数値の変動の大きさ自体からも、容易にこの事実の持つ問題性に着目することができたはずのものといえよう。

そして、当時、永田所長としては、結核の新規登録患者数においては、通常全結核の一〇分の一程度が肺外結核、さらにその一〇分の一程度が骨関節結核であるとの認識を有していたのであるから、骨関節結核の新規登録が合計二〇人に達した以上、単純に計算しても、前記肺外結核二九人、全結核八七人という数値は、通常あるべき新規登録患者数とあまりに不均衡、すなわち異常であるということに容易に気付いて然るべきものであつた。罹患率の面からみても、右骨関節結核の新規登録患者数二〇人というのを、仮に一年間の合計数とした場合、その罹患率(一〇万対比)は、47.9(二〇÷四万一七二九〔因島市の当時の人口〕×一〇万)と算出できる。当時骨関節結核の罹患率に関する統計がなかつたことは前記のとおりであるが、当時ならば知り得たと思われる前々年の昭和四三年の全国の肺外結核の罹患率23.9(前記表三〇のとおり)から、骨関節結核は肺外結核の一〇分の一程度という前記認識によつて、全国の骨関節結核の罹患率は2.4程度と割り出し得るところ、前記算出値は右全国の罹患率の二〇倍にも及ぶことが明らかであり、異常以外の何ものでもない。このような計算は、永田所長が前記(ロ)の②の措置に早期に着手しておれば、この時期においても容易になし得たものと思われる。

以上の次第であるから、永田所長は、因島保健所管内の月間の骨関節結核の新規登録患者数が九人に及んだ昭和四五年八月の経過とともに、骨関節結核の新規登録患者数における明らかな異常性を容易に知り得たものといわなければならない。

ところが、証人永田三六の証言によれば、永田所長は、この当時においても、「相変わらず骨関節結核が発生しているな。」と思つていた程度で、その数が多くなつていることは分かつていたけれども、具体的な数値の把握に努めたこともなく、前記昭和四五年四、五月当時とあまり変わらない認識のままで、特段結核の集団発生との疑いも持たなかつたことが認められ、この点、保健所長として、事態に対する認識がいささか甘かつたものと指摘せざるを得ない。

(c) 昭和四五年一二月当時

永田所長が骨関節結核の新規登録患者数の異常性を知り得る状況となつたのは昭和四五年九月初めころと目されるが、ちようど因島市長による一般住民健康診断が始まつたころであり、とりあえず、同所長としては、前記(ロ)の③の発想により、潜在患者の発見と治療のため、右健康診断の結果を待つのはやむを得ないとしても、事態の問題性が深まるなかで、右健康診断の成行には十分な関心を寄せ、さらに、前記第二の五2(三)のとおり、その結果が例年のそれと変わりがなく、多数の肺結核患者が発見されるはずとの予想が全く裏切られた時点においては、骨関節結核の新規登録患者数の異常性のうえに、もう一つ、結核の種類別の頻度に関する常識的発想によつては、少なくとも肺結核の多発の徴候がみられないという説明困難な疑問点が加わり、事態が一層複雑化、深刻化の様相をみせ始めたことに注目する必要があつたといえよう。

もつとも、前記因島市長による一般住民健康診断の受診者数は二九三〇人であり、因島市の当時の人口の七パーセント程度であることに照らすと、これでは必ずしも同市全体の傾向をそのまま反映していないかも知れないとの判断の余地も当時としては残り得るものと考えられるから、永田所長としては、右健康診断の結果を踏まえ、他に実施された定期・定期外の健康診断の結果をもあわせて、最終的に事態に対処することが要請されることとなろう。

しかるに、昭和四五年に因島保健所管内で行なわれた定期・定期外の健康診断の実施状況については、前記第二の五2(三)のとおりであるが、因島市長によつて行なわれた一般住民の健康診断以外については、その実施時期の詳細に関する証拠がなく(業態者の健康診断は春と秋に行なわれることだけが分かつている。)、永田所長がいつの時点でそれぞれの結果を知り得たのか不明であり、結局、因島市全体の傾向において肺結核の多発はみられないとの認識に到達し得た時期も不明である。

しかし、前記第二の五2(四)のとおり、翌昭和四六年一月中旬には、永田所長から広島県衛生部長に対し、結核登録者に関する定期報告が提出されているので、遅くとも昭和四五年一二月末ころには、同所長は因島市の大略の結核の傾向は知り得たものと推認でき、これらの事情からすると、前記従前からの肺結核が多発しているはずとの発想と現実とのへだたりに容易に疑問を生じて然るべき状況になるのは、一応昭和四五年一二月末ころといえる。

このような場合、当時保健所長の立場にあつた者としては、その対応に苦慮、困惑して然るべきものと思われるが、かといつて、いたずらに自らの手元において時を経るのではなく、事態の異常性からみても(昭和四五年一二月末には骨関節結核の新規登録患者数の同年内の合計は、二九人となつていた。)、その原因の早期解明と対策の実施を目的として、各方面からの衆知の結集に努め、あるいは、広島県地方機関の長に対する事務委任規則四条(所長は、次条以下の規定により委任された事務であつても、次の各号に掲げる場合には、その処理につき、あらかじめ知事の指揮を受けなければならない。一、事案が重要又は異例と認められる場合、二、事案について疑義若しくは紛議があり、又は紛議を生ずるおそれがある場合)の規定の趣旨に則り、広島県知事(現実にはその事務を分掌する同県衛生部)に対し、報告をしてその指揮を仰ぐ等の手を打つ必要があつたものといわなければならない。そうしておれば、広島県衛生部は、遅くとも昭和四五年一二月末ころには、因島市における骨関節結核の異常な多発という事態を知り得たはずと思われる。

ところが、永田所長は、前記第二の五2(三)ないし(八)のとおり、昭和四五年九月から同年一〇月にかけての因島市長による一般住民健康診断の結果、多数の肺結核患者が発見されるはずとの予想が全く裏切られ、さらに、同年内に実施されたその他の定期・定期外の健康診断においても、同様予想外の結果に終わつたことを遅くとも同年一二月末には知り得たにもかかわらず、しかも、その後も骨関節結核の新規登録が相次いでいたにもかかわらず、何らの措置も講ずることはなかつた。そして、単に翌昭和四六年に実施される各健康診断の結果を再度待つことにしたにとどまり(前年と異なるのは、昭和四六年三月二三日現在の因島市内在住の結核患者の地区別分布状況について概略前記表四〇のような一覧表を職員に作成させ、因島市長による同年八月から一〇月までの一般住民健康診断の際、右の表を参考に、結核患者の多い同市大浜地区を重点地域と指定したことくらいである。)、この間、同年半ばころ、保健婦から、骨関節結核患者の多くが奥医院に通院しており、同医院に発病の原因があるのではないかとの噂がある旨の報告を受けたにもかかわらず、さらに、同年八月上旬ころ、読売新聞の内山記者が、同市内で聞いた「大浜町の医院に通院していた者が多数奇病にかかり、死者や身障者を出している。医者も死んだそうだ。」との噂について取材のために訪れて来たにもかかわらず、別段の措置もとらないまま経過していたが、同年一〇月中旬市民から「一日総合相談」の際にも指摘を受け、ここにおいて初めて県衛生部の指示を仰ぐ気になつた。

右事実によれば、永田所長は当初の予想が昭和四五年一二月末の段階でほぼ裏切られる結果となつたのに、従前からの常識的発想と現実とのへだたりに疑問を持つこともなく、しかも、患者数が増加し続けていくなかで、特段困惑した形跡もなく、もちろん、県衛生部に相談して知恵を借りる等思いも寄らないまま、従来どおりの発想に固執し、昭和四六年一年がかりで前年同様の健康診断の結果を待つという態度を繰り返そうとし、さらに、骨関節結核の多発と奥医院との関連をうかがわせる風評に接し、そのうえ、事態を察知しかけた新聞記者の訪問を受けながら、市民からの指摘が出るまで、結局、何もしようとしなかつたに等しいものといわざるを得ない。このように永田所長は保健所長として事態の異常性を容易に知り得たにもかかわらず、これを認識せず、県衛生部に報告することもなく、自らの手元において、新たな措置をとる余地のないままいたずらに時を経過させたこととなる。

永田所長は、昭和四六年一〇月下旬ころ、ようやく広島県衛生部予防課の寺上課長を訪ね、因島市における骨関節結核の多発と奥医院に関する風評について口頭で報告し、指示を求めたが、何ら資料も持参していなかつたため、同課長から、詳しい報告を求められ、さらに二か月余経過した同年一二月末ころ書面によつて報告をし、これを待つて同課長が翌昭和四七年初めから活動を開始したことは前記第二の五2(八)、3(一)、(二)のとおりであり、永田所長の前記対応の不足による結果、県衛生部が因島市における骨関節結核の多発を知り、新たな措置を講じ得る状態になるのは、同所長に右不足がない場合に比較して、まる一年遅延したものといわなければならない。

(ニ) 広島県衛生部関与下の対応措置の当否

現実に、広島県衛生部が昭和四六年一〇月、次いで同年一二月永田所長から因島の結核状況についての報告を受けた後にとつた措置とその経緯については、前記第二の五3(一)ないし(九)認定のとおりである。

まず、その要否を検討する。

(a) 特別住民健康診断

右認定事実によつて明らかなように、西本教授ら専門家からの意見聴取に基づき、県衛生部予防課の主導の下に、肺結核患者の発見に努めるばかりでなく、骨関節結核患者の発見の手掛かりをつかもうと問診その他の検査項目を加えた特別住民健康診断が昭和四七年四月三日から因島市において実施された。

これより先、昭和四五年及び同四六年の二年間にわたる定期・定期外の健康診断が実施されていたのに、さらに特別住民健康診断を実施した点については、結局、特段の肺結核、骨関節結核患者を発見できなかつたという結果からみれば、本件集団発生の原因究明のためには見込み違いであつたことが現時点で明らかである。確かに、二年間の健康診断の結果肺結核の多発が認められなかつたにもかかわらず、さらに肺結核患者の発見に努めたとの部分は、いくら何でも屋上屋を重ねた無駄な措置であつたといわざるを得ない。ただ、新たに骨関節結核患者の発見のための検査項目を加えた点については、これまでの健康診断が胸部エックス線撮影を主としたもので、骨関節結核を直接発見できるものではなかつたことに対する反省によるものとうかがわれ、試行錯誤の一過程として不合理とはいえず、結果的に見込み違いであつたとしても、当時においてはやむを得ない面がないわけではない。また、因島保健所長らの思考が健康診断に重点を置き、あくまで未発見患者の発見を目指す方向に傾いているやにうかがわれるが、これはすでに発見された患者らに対しては医師の治療が施されているという現状認識が存することによる影響とも解される(ちなみに、前記表三八、三九のとおり、保健婦の家庭訪問指導の実施基準によれば、肺外結核患者が正しく療養している場合、初回訪問の時期や継続訪問の間隔・回数は比較的緊急性が緩和されている)。

(b) 実態調査

しかしながら、昭和四七年四月に始まつた特別健康診断が終了し、特段の肺結核患者も骨関節結核患者も発見されないという結果が最終的に出た同年一〇月の段階に至つて初めて、従前登録された骨関節結核患者らに対する実態調査が開始された点については、問題がないとはいえない。

このころには、すでに昭和四六年一二月一八日の読売新聞により、「A医院」という表示でこれに通院した患者多数が骨関節結核に罹患し、感染源も同医院である疑いが強いとして、患者らが「発病原因を究明する会」を結成し、国や県に対して監督責任追及の構えをみせている旨の報道がなされ、その翌日には県議会の厚生委員会で県衛生部長が右新聞記事の内容に関する質問に対し答弁する事態もあり、県衛生部では、永田所長からの報告により右「A医院」が奥医院であることを知つていたのであるから、因島市における骨関節結核の多発と奥医院との関係について、衛生行政的見地からも、政治的見地からも、その解明の必要性は避けられないことを認識し、前記特別住民健康診断のような試行錯誤的措置をとるのはそれでよいとしても、同時に、当面住民側から突き付けられた課題についても直ちに調査検討に乗り出すことが必要であつたと思われる。

前記中川喜幹氏は、その証言において、保健所としては、伝染病の集団発生の場合に、その感染源・感染経路の究明には、これに関する様々な情報を疫学的方法により取捨選択し消去する等の手順を経るべきであるが、風評はしばしば重要な情報源であり、これを捨てるには十分な根拠が必要である旨述べている。

当時の因島市においては、前記のとおり骨関節結核患者らが「発病原因を究明する会」を結成して、その活動を開始しており、名指しで特定の医院(奥医院)を挙げ、罹患患者ら多数が同医院に通院していたとの具体的な事実をも指摘しているのであつて、奥医院が骨関節結核多発の原因に何らかの関係があるのではないかということは、もはや単なる風評の域を脱していた。単なる風評ですらその原因やきつかけが存するのが普通であるから、このように具体的な指摘が多数人によつてなされたということは、それなりの理由が存するものと考えて然るべきところ、広島県衛生部としては少なくともまずその点の解明に尽力すべきであり、これを一方的に無視することは相当ではない。

とくに、この住民側からの指摘は、因島市における二年間にわたる定期・定期外健康診断によつても、骨関節結核登録患者数に対応して然るべき肺結核の多発が認められなかつたという、結核の通常の発病病理と頻度の上からは説明不可能な事態に直面して、対策を迫られていた県衛生部にとつては、重要な示唆となるべきものであつた。

通常の発病病理と頻度に基づく常識によつては説明不可能な結核状況が現実に進行し、その原因が全く不明な局面において、当の結核患者らから発病原因等に関して具体的な指摘がなされた以上、行政側としては、まずこれに注目し、その真偽の確認のため、これら患者らと指摘された医療機関との関連を含めた実態調査を実施すべきであろう。

当時における前後の状況からすると、住民らの前記指摘が全く根拠のないでたらめ、ないし直ちにその解明に取り組む価値のないものであつたとは到底認められないところであり、因島保健所、広島県衛生部が当分の間住民側からの貴重な指摘を無視し、実態調査の開始を大幅に遅延させた理由についての合理的な理解は、少なくとも本件証拠上からは得られない。

ただ、この当時、すでに奥医師が死亡して奥医院は閉院され、通院患者らのカルテは遺族らによつて散逸させられた後であつたことが、あるいは、因島保健所、県衛生部の対応を鈍らせた原因となつたやにうかがわれないわけではない。しかし、実態調査は、問題となつた医師が生存し、そのカルテが存在するにこしたことはないとしても、何もそうでなければなし得ないものとまでは考えられず、現に同医院に通院したと主張する患者らが多数存在するのであるから、その問診、事情聴取等を通じて、奥医院との関連その他の疫学的調査を行なうことは十分に可能であつたといえる。

しかも、実際に行なわれた実態調査自体、適切な目的意識と方法によるものかどうかはかなり疑問である。

前記第二の五(八)認定のとおり、実態調査の際に使用された別紙資料2「骨関節結核(登録患者)調査票」は、前記中川喜幹氏がその証言において指摘するように、患者個人の症状等の実態把握には適当であつても、原因究明という観点、とくに患者らが通院した医療機関、奥医院への通院の有無の把握という視点からは遺漏があるといえる。たとえば、右調査票に主治医がカルテをみて記入するような場合、治療時に医師が患者から従前の他の医療機関への通院歴を聞いていなかつたとすれば(とくに、奥医院が風評にのぼる以前の患者らについては、患者ら自身も訴えないといつたことも十分あり得るところであり、担当医が患者らに必ず過去の通院歴を問診したとの保証もない。)、記入されないのは明らかであり、また、仮にその過去の通院歴を聞いていても、調査票には書き込むべき具体的項目が必ずしも明示されているとはいい難く(奥医院通院の有無の項目はない。)、医師に対してとくにその点に留意するとの要請がなされた形跡もないので、記入漏れを生ずる可能性が多分に存在するであろう。他に、右実態調査以外に骨関節結核の登録患者に対する過去の通院歴、とくに奥医院通院の有無に関する端的な調査がなされた形跡は、証拠上認められない。

ある患者が奥医院に通院したか否かの判断が正当なものであるためには、右通院の有無が端的に調査の対象となつていることが必要である。同医院通院の有無の調査項目が存在せず、しかも過去の通院歴の点についても不十分な調査項目しか存しない実態調査によつて、同医院通院の有無の判定を正確になし得るわけがなく、たまたま同医院に通院したとの事実が浮かび上がらない患者が相当数いたからといつて、この者らが奥医院に通院しなかつたと判定することは、いささか問題である。

したがつて、前記第二の五3(九)のとおり、前記実態調査終了後に開かれた第三回目の対策会議において、骨関節結核の登録患者のなかには奥医院で治療を受けたことのない者も相当数いる旨の判断がなされたことは、右調査方法に問題が存する以上、必ずしも正当とはいえない。

また、前記実態調査は、医療機関の医師により前記調査表に必要事項を記入するという方法によつて行なわれているところ、この方法は臨床的側面から患者の実態を把握するには良いとしても、疫学的側面からの実態把握のためには、患者本人に直接接して問診等の調査手段を尽くすべきものであつたと考えられるが、因島保健所、県衛生部が患者ら本人に直接に接する機会は、前記「発病原因を究明する会」の者らによる陳情等の際を除いては、ついに設けられた形跡は証拠上認められず、このような点にも、行政側の措置の消極性が現われている。

このように、現実になされた実態調査については、その実施時期や内容の面で批判の余地があるものといわなければならない。

(ホ) とるべき対応措置

前記(ハ)(c)のとおり、永田所長が通常の注意を払つていれば、広島県衛生部に対し因島市の異常な結核状況を報告することができたのは、昭和四五年一二月末ころ、すなわち、現実に同所長が寺上課長に書面で右報告をした昭和四六年一二月末ころの約一年前と思われるが、仮にそのとおりになつた場合を想定すると、事態はどのような経過をたどつたであろうか。

(a) 特別住民健康診断

前記表二五のとおり、因島市における昭和四五年一年間の結核の新規登録患者数は、総数一二五、肺結核八五、肺外結核四〇、骨関節結核二九であり、結核状況としてはすでに明らかに異常であるから、当然県衛生部としては、右異常性を容易に知り得るところであり、かつ、知らなければならないものといえる。

その場合、県衛生部予防課長が広島大学の疫学や結核の専門教授らに意見の聴取に赴き、その教授らから、まず結核の潜在患者の発見が肝要であるとして、肺結核及び骨関節結核の双方の発見のための健康診断の必要性を説かれ、これに従つて、県衛生部の主導の下に、特別の一般住民健康診断が因島市で実施されるという経過をたどつたであろうことは、一年遅れの現実の場合においてすらそうであつたのであるから、あり得て不自然ではない。

右特別住民健康診断が現実の一年前に実施されていたならば、その骨関節結核の発見を目的とする部分については、現実の場合にもまして、試行錯誤の一過程としては不合理といえないものと考えられ、また、肺結核の発見を目的とする部分についても、因島保健所が昭和四五年の一年間にわたつて実施した健康診断の結果の再点検という意味において、現実の場合が昭和四五年及び同四六年の二年間の健康診断の結果をさらに再点検したことに比べれば、まだしも無駄とまではいい切れない。

それでは、この特別住民健康診断はどの時点までに実施され得たと想定できるであろうか。

現実には、昭和四六年一二月末ころ永田所長が寺上課長に因島市の結核状況の詳細な報告をした後、同四七年初めころ寺上課長が広島大学の西本教授らの下に意見聴取に赴いて、特別住民健康診断を立案し、同年四月三日からこれが実施されており、右報告から右実施まで三か月余を要している。この三か月余を要したことについては、この間の県衛生部の具体的な動きや準備の内容の詳細に関する立証が十分になされていないので、必ずしもその当不当は論じ難いのであるが、前記のとおり、特別健康診断を実施する場合には、レントゲン車の保有台数やその派遣先の各保健所の健康診断の実施計画への影響等にかんがみ、ある程度の準備期間が必要であり、その期間として三か月余程度はやむを得ないものと考えられないわけでもない。同様のことは、昭和四五年一二月末ころに因島保健所長が県衛生部に対し因島市の結核状況に関する報告をしたと仮定した場合にも、当てはまるものと解される。したがつて、この場合においては、特別住民健康診断は、昭和四六年四月ころから開始されて然るべきものとなる。

次に、現実に実施された特別住民健康診断は当初より受診者数が少なかつたため、三回にわたつて繰り返され、終了したのは昭和四七年九月二八日であつたことは前記第二の五3(三)のとおりであり、前記仮定の場合も、右現実と特段の事情の相違も認められないので、ほぼ同様の経過をたどるものと推測するほかない。

(b) 実態調査

ところで、前記仮定の場合においても、前記現実の場合において述べたように、県衛生部、因島保健所長は、健康診断とともに、骨関節結核の登録患者らに対する実態調査に着手すべきであるといえるであろうか。

確かに、後日の批判的な視点からみれば、昭和四五年一二月末を経過したころにおいて、前記(ロ)の④、⑤の発想とこれによる措置を県衛生部、因島保健所長に要求することが全く無理なこととまでは考えられず、患者らの実態を把握しようとの試みはなし得る余地はあつたと思われる。

しかし、右の時点において、県衛生部、因島保健所長が実態調査の必要性を容易に認知し得る状況であつたか否かについては、さらに検討を要する。

昭和四五年一二月末を経過したころと同四六年一二月末を経過したころとでは、因島市における同四五年初めからの骨関節結核の新規登録患者数の累計にかなりの差が存する(前者で二九人、後者で五七人)ほかに、前述したように、後者では、すでに同四六年半ばころ保健婦らが永田所長に同医院に関して報告し、同年八月には新聞記者が特定医院における奇病の多発等の噂を耳にして同所長に確認のため取材に訪れ、同年一二月一八日には「A医院にかかわる関節結核の多発」という趣旨の新聞報道すらなされて、患者らが団体を結成して行政の責任追及の構えをみせていたというのに対し、前者では、県衛生部、因島保健所長は、右奥医院に関する風評等を全く認知していなかつたという点に大きな差異がある。

後者において、実態調査が直ちに実施されなかつたことについての合理的な理解が困難であることは前述のとおりであるが、前者においては、県衛生部、因島保健所長が知り得る状態にあつたのは骨関節結核のみの新規登録が多数に及び、健康診断の結果によつても肺結核の多発がみられなかつたという事実に限られており、当時の骨関節結核の通常の発病病理と頻度に関する常識的な知識や過去に骨関節結核多発の前例が全くないという事情等からすると、他に示唆的な情報もない以上、直接の加害者でもない県衛生部、因島保健所長が実態調査の必要性を容易に認知し得る状況にあつたというには、いまだ躊躇せざるを得ない。実態調査の実施されて然るべき時期を考えるうえにおいては、やはり右示唆的な情報の存在が重要である。

前記第二の五2(七)のとおり、昭和四六年半ばころには、保健婦らが骨関節結核患者の家庭訪問指導を通じて、その多くが奥医院に通院したことがある事実に気付くようになり、同医院に発病の原因があるのではないかとの噂も耳にするようになつたので、永田所長に対してその旨の報告をしている。昭和四六年に入つてからの結核の新規登録患者数は、一月全結核一〇(脊椎カリエス以外の骨関節結核三)、二月三(二)、三月一三(七)、四月一一(五)、五月九(三)、六月六(一)といつた状態であり、当時の因島保健所長の立場にあれば、管内の結核状況の異常性がさらに加重していくのに困惑の度を深めていて然るべきものである。保健婦からの報告は、この困惑の状況下において、突然に現われた予想外の角度からの情報というに値するものであるから、とりあえずこれに注目し、当時の常識からは、骨関節結核の多発と特定の医療機関とが関連するという発想をそのまま受け入れ難いとしても、他に異常な結核状況の解明の糸口も見当たらない以上、試行錯誤の一環として、その確認作業に着手すべきものといえる。

その場合、調査の対象は、風評の内容に対応して、端的に患者らの奥医院通院の有無、その治療内容等が中心となるべきである。さらに、その風評が患者らの通院先という共通因子にかかわるものであることから、他にも共通点が存しないかどうかの調査項目も加えて然るべきものであり、また、患者らの具体的な病状把握のために現実の実態調査と同様の調査を実施することもこの際必要と考えて然るべきものである。その調査に際して、患者らの病状把握のためには、現実の実態調査と同様、担当医にカルテから記入させる等の方法をとることはそれでよいとしても、患者らの共通点すなわち疫学的側面の解明のためには、調査目的を明確に認識した保健婦等の保健所職員に直接患者らに面接させる等の方法をとつて、調査目的と方法にそごが生じないように注意すべきである。

そして、その調査結果の判明までにどの程度の期間を要するかについては、特段の立証もないので、直ちに判定し難いが、現実の実態調査には前記第二の五3(七)、(八)のとおり約二か月を要していることが一つの参考になるものとみて、状況にある程度の差異が存するけれども、やはり二か月程度を要して然るべきものといえよう。

仮に、右のような調査が昭和四六年半ばころに着手されていたならば、遅くとも同年八月末ころには、因島保健所長らは、前記第二の三、四認定の事実から明らかなように、少なくとも当時の骨関節結核の登録患者のうちその大部分を占める本件患者らについては、奥医院通院という共通点や同医院での関節注射部位への発病の顕著な傾向等を認知し得たものというべきである。

右の調査を実施すると同時に、骨関節結核の多発と奥医院との関連について、確実な裏付をとるために、同医院そのものに関する調査にも着手すべきであろう。ところで、奥医師が昭和四五年一一月二四日死亡し、そのころ奥医院が閉院されたことは前述のとおりであり、最も重要な調査対象がすでに存在しない以上、調査に大きな困難が伴うことは否めないように思われる。しかも、同医院閉院後通院患者らのカルテ等の資料が失われた旨の報告がなされたことも前述のとおりである(もつとも、右報告は昭和四七年になつてからのことであり、昭和四六年八月末当時にどうであつたかについては証拠はない)。ただ、それならば、奥医師の家族や奥医院に勤務していた看護婦見習等に対する事情聴取等により、同医院での医療実態等を明らかにするように努めるべきであろう。

このような調査が実施されていれば、前記第二の四3認定のように、同医院では副腎皮質ステロイド剤が関節注射に多用され、注射の際の無菌操作、消毒等に遺漏があり、結核患者が通院し、看護婦見習の一人が結核の疑いの濃厚なままに死亡していること等を認知でき、その結果、骨関節結核の多発が同医院を舞台とするいわゆる院内感染、それも関節注射の際の結核菌混入によるいわゆる接種感染であるとの疑いを持ち得たというべきである。

したがつて、右奥医院に関する調査が実施されれば、前記患者らに対する調査とも相まつて、県衛生部、因島保健所長は、昭和四六年九月初めころには、右のような院内感染、さらには接種感染の濃い疑い(もつとも、これを確実に裏付けるすべはもはやない。)を持つに至るものと思われる。

(c) 院内感染、接種感染の疑いの後

それでは、県衛生部、因島保健所長は、因島市における骨関節結核の多発について、奥医院を感染場所とする院内感染、さらには接種感染の疑いを持つて然るべき昭和四六年九月初めころより後に、どのような措置を講ずべきであつたのかが問われることとなる。

まず、奥医師が昭和四五年一一月二四日死亡し、奥医院がそのころ閉院されたことにより、すでに同四六年初めころには、同医院での医療行為に起因する新たな結核感染者が発生する危険が存在しなかつたことは前記(1)のとおりであり、県衛生部、因島保健所長は、右時点より後は右危険防止のための措置を講ずる必要は存しないものといえる。

次に、奥医院の閉院前に同医院に通院した患者らのうち、昭和四六年九月初めころ以前に医療機関で骨関節結核との診断を受け、その治療を受けている患者らについては、すでに結核の発病、病状悪化の差し迫つた危険は治療によつて消滅したか、少なくとも医師の管理下にあるものといえるから、県衛生部、因島保健所長において、医療費の公的負担や保健婦の家庭訪問指導以外に、もはや右危険防止のために特段の措置を講ずる必要は存しないものといわなければならない。前記第二の二1(一)(1)ないし(83)(ただし、同(3)、(15)、(19)、(23)、(33)、(42)、(47)を除く。)のとおり、本件患者ら(原告岡野トシエを除く。)のうち、原告大出茂則、同宮地八重子、同小林スズエ、同松葉茂、同岡野一子、同岡野ヤエコを除くその余の患者らは、いずれも右時点以前に各医療機関で骨関節結核との診断を受け、その治療を受けている(そのうち、亡村上ノブエ、亡野坂トシコ、亡栁本キヌヨはすでに死亡している。)から、県衛生部、因島保健所長(なお、右患者らのうち、瀬戸田町在住者一五名〔別紙一覧表一「結核登録及び公費負担状況」のうち「瀬戸田町関係一五名」欄のとおり〕については、同町を管轄する三原保健所長)において、右同様、もはや特段の措置を講ずる必要は存しないものといえる。

ところで、奥医院に通院して結核の感染を受けたが、昭和四六年九月初めころにはいまだ医療機関で骨関節結核との診断も受けておらず、結核の届出・登録もされていないため、県衛生部、因島保健所長(一部三原保健所長)において掌握していない未発見患者については問題が残る。本件患者らのうちでは、前記原告大出茂則、同宮地八重子、同小林スズエ、同松葉茂、同岡野一子、同岡野ヤエコの六名(いずれも因島市在住)が右未発見患者に当たる。

前記第二の二1(一)(3)、(15)、(19)、(23)、(33)、(42)、別紙一覧表三「医療機関による結核診断」のとおり、原告大出茂則が尾道総合病院で右肩関節結核との診断を受けたのは昭和四七年五月下旬ころ、同宮地八重子が三原赤十字病院で左股関節結核との診断を受けたのは同年一月下旬ころ、同小林スズエが因島病院で右膝関節結核との診断を受けたのは同年二月上旬ころ、同松葉茂が同病院で右膝関節結核との診断を受けたのは同年四月初旬ころ、同岡野一子が村上病院で左膝関節結核との診断を受けたのは同四八年一〇月ころ、同岡野ヤエコが因島病院で右足関節結核との診断を受けたのは同四七年一月初旬ころであり、いずれも右各患部関節について右各診断を受ける以前は、結核に対する治療は受けていなかつたものと推認される。

これら六名に対する関係では、県衛生部、因島保健所長において、その発病、病状悪化の差し迫つた危険防止のための措置を講ずる余地が一応考えられないではない。

しかし、この措置を講ずるにしても、当該患者本人を発見掌握することが前提となるが、昭和四六年九月初めころ当時奥医院のカルテ等通院患者を把握するための資料が残存していたか否か前記のとおり不明であるうえ、県衛生部、因島保健所長において、他に同医院通院患者を把握する方法を有していたか否かも証拠上明らかではない以上、因島市に散在している未発見患者を発見掌握するには、相当の困難を伴うものと考えられることはあつても、県衛生部、因島保健所長において、右患者らを果たして発見し得るのか否か、その時期はいつになるのか、医療機関で骨関節結核との診断を受ける以前に発見し得るのか否か認定困難である。

したがつて、前記原告大出茂則ら六名の患者に対する関係では、県衛生部、因島保健所長において、昭和四六年九月初めころ、その結核の発病、病状悪化の差し迫つた危険が存することを容易に知り得たものと認めるには足りないところであり、また、右危険が消滅し、若しくは右患者らが医師の管理下に委ねられるより前に、右危険防止のために特段の措置を講じ得たとまでは認めるに足りないのである。

(ヘ) まとめ

以上のとおり、県衛生部、因島保健所長が本件集団発生下及びその前後においてとつた対応措置には数々の問題点を指摘することができるけれども、県衛生部、因島保健所長において、通常とるべき対応措置を尽くしていたとしても、本件集団発生が奥医院を感染場所とする院内感染、さらには接種感染によるとの疑いを持つて然るべき時期には、すでに同医院での医療行為に起因する新たな結核感染の危険は消滅し、本件患者らのうちの大部分の患者らについて、その発病、病状悪化の差し迫つた危険は消滅したか、少なくとも医師の管理下にあることによつて、もはや右危険防止のために特段の措置を講ずる必要は存せず、また、一部の患者らについて、発見掌握に困難が予測され、その時期も明らかではないことによつて、右同様の危険の存在を容易に知り得、その防止のために特段の措置を講じ得たものと認めるには足りないところである。

(3) 他事例と本件との比較

(4) まとめ

以上検討してきた結果を総合すると、広島県知事、因島保健所長は、本件集団発生の具体的な事実関係の下では、前記1(四)において述べたような結核予防行政面における国家賠償法上の作為義務を負うに至ることはなかつたものといわなければならない。

三  医療行政と国家賠償

次に、前記一の原告らの主張第二点のような医療行政面における国家賠償法上の作為義務の有無について検討する。

医療法は、日本国憲法二五条の規定を受け、公衆衛生の向上及び増進につとめる一環として、国民の健康確保のために重要な役割を担う医療について、その適正、内容の向上及び普及を図ることを趣旨とし、医師法等が同様の趣旨の下に医師等医療関係者の資質等を規制するのに対し、主として医療の行なわれる場所(病院、診療所等)の衛生保持等を規制する法律である。

医療法は、病院、診療所等の清潔保持、構造設備に関連して、概略左のとおり規定している。

二〇条は、その基本原則として、「病院、診療所又は助産所は、清潔を保持するものとし、その構造設備は、衛生上、防火上及び保安上安全と認められるようなものでなければならない。」と規定している。

以上のとおり、医療法は、病院、診療所等の清潔保持、構造設備の安全確保のため所定の基準に適合した人的物的施設の設置を義務づけ、これを罰則をもつて強制し、また、都道府県知事等に対し、右清潔保持の状況、構造設備について監視させるため、報告の徴取、立入検査の権限を付与し、これに従うよう罰則をもつて強制し、さらに、都道府県知事に対し、病院、診療所等が清潔を欠き、又はその構造設備が法定の基準に適合せず、若しくは衛生上有害と認めるとき等は、その使用制限・禁止、修繕、改築を命ずる権限をも付与し、右命令の違反者にはさらに罰則を強化して、これに従うよう強制している。

このことは、疾病の予防と治療を担当する医療機関の清潔保持、構造設備の安全確保が、患者の健康、ひいては公衆衛生の向上及び増進において占める役割の重要度を示すとともに、これを監督する立場としての都道府県知事等に対する期待の大きさをあらわすものといえよう。

確かに、医療における専門性からすると、患者、ひいては国民の側には、医療機関の清潔保持の状況、構造設備の安全性について、的確な判断をなすことは不可能か、又は著しく困難というべきであり、この点からも行政側の有効適切な対応が要請されて然るべきものである。

このようにみてくると、医療法上、都道府県知事は、病院、診療所等の清潔保持、構造設備の安全確保について、報告の徴取、立入検査、施設の使用制限等の命令による監督の任に当たることをもつてその責務とするものと解すべきであり、この責務の達成のために前記各権限が付与されているものというべきである。

なお、都道府県知事に属する医療法上の事務は、通常、保健所長に委任されていることが多いので、前記の趣旨はその委任を受けた保健所長についても当てはまる(ちなみに、<証拠>によれば、広島県の場合、医療法に基づく知事の権限のうち各保健所長に委任された事務のなかには、同法二四条の規定による診療所又は助産所の全部又は一部の使用の制限及び禁止並びに修繕及び改築の命令、同法二五条一項の規定による病院、診療所又は助産所に係る報告の徴取及び立入検査が含まれていることが認められる)。

以上のような都道府県知事、保健所長の医療行政上の職責、権限のほか、前記二において詳述したような結核及びその集団発生による損害の重大性、知事、保健所長の衛生行政機関としての組織・任務・能力等にかんがみると、ある特定の医療機関において、清潔保持を欠き、衛生上有害な状態となつたうえに、医療従事者若しくは通院患者らのなかに結核患者が存することによつて、右医療機関に通院する患者らを中心とする地域住民に結核感染の差し迫つた危険が生じたが、地域住民としては自力では右危険を認知して防止することが不可能か、又は著しく困難であるため、これを放置するときは、右地域住民の結核感染による生命・身体に対する危害の発生が相当の蓋然性をもつて予測することができる状況の下において、右状況を知事、保健所長が容易に知ることができる場合には、条理上、知事、保健所長において、その権限を適切に行使し、右医療機関の開設者等に対して必要な報告を命じ、医療監視員をして右医療機関の清潔保持の状況等を検査させたうえ、その施設の使用を制限若しくは禁止する等の措置を講じて、右地域住民の結核感染による生命・身体に対する危害の発生を未然に防止すべき作為義務を負うに至るものと解するのが相当である。

ところで、昭和四四、五年当時の奥医院の状態については、前記第二の四3認定のとおりであり、右認定事実からすると、遅くとも昭和四五年一、二月から同医院が閉院となる同年一一月下旬ころまでの間、同医院(同医院は医療法にいう診療所に当たる。)において清潔保持を欠き、衛生上有害な状態となつたうえに、肺結核患者が通院し、看護婦見習に結核の疑いが存することによつて、同医院に通院する患者らを中心とする因島市及びその周辺の住民に結核感染の差し迫つた危険が生じたが、右住民としては自力では右危険を認知して防止することが不可能か、又は著しく困難であるため、これを放置するときは、右住民の結核感染による生命・身体に対する危害の発生が相当の蓋然性をもつて予測することができる状況になつていたものといえる。

しかし、因島保健所長が奥医院に関する風評に接するのは同医院閉院後しばらく経過した昭和四六年半ばころであることは前述のとおりであり、これ以前に同所長が前記認定の同医院の状態を知つていたものと認めるに足りる証拠はなく、また、広島県知事、因島保健所長が、同医院閉院前に、同医院の右状態について容易に知ることができたものと認定するに足りる証拠もない。

以上の次第であるから、広島県知事、因島保健所長は、原告らの主張第二点のような医療行政面における国家賠償法上の作為義務を負うに至らなかつたものというべきである。

四  まとめ

前記二、三のとおり、広島県知事、因島保健所長は、本件集団発生に際し、結核予防行政面においても、医療行政面においても、本件患者らに対し、国家賠償法上の作為義務を負うに至らなかつたものであるから、その不作為について違法であり、過失があるとされるための前提を欠き、被告らには同法による責任はないものといわなければならない。

第四  結論

よつて、原告らの本訴請求は、その余の点について判断するまでもなくいずれも理由がないから、これを棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(竹原俊一 矢延正平 内田計一)

(別紙)

一覧表一 「結核登録及び公費負担状況」

(因島保健所管内関係 六八名)

(瀬戸田町関係 一五名)

(別紙)

一覧表二 「見舞金等支給状況」

患者

番号

氏名

見舞金・弔慰金の支給

医療費の支給(自己負担分)

種別

金額

支給昭和年月日

支給

支給総額

(昭和四八年四月~

同五〇年一〇月)

1

原告 花岡峰義

見舞金

五万円

四八・四・二五

二九一四円

2

同  村上シズエ

3

同  大出茂則

一六

4

同  柏原忠男

一三

一四万三一六一円

5

同  酒井和行

一六

三八二一円

6

同  須山保樹

一三

六万五三七四円

7

同  杉本町子

三万円

一六

二二二円

8

同  大黒イサミ

一六

9

同  大黒イマコ

五万円

一六

二万六九三一円

10

同  大黒道子

一三

11

同  楢原忠勝

一六

12

亡  麓マツエ

弔慰金

七万円

一三

13

原告 川本勝

見舞金

五万円

二六

14

亡  宮地マツコ

二六

15

原告 宮地八重子

二六

二万二一九一円

16

亡  松原勇

二六

17

原告 上野スエ子

二〇

18

亡  大立ミヤ子

二〇

19

原告 小林スズエ

二〇

20

同  郷原サワエ

三万円

二〇

21

同  田頭カナヨ

五万円

二〇

三七〇五円

22

同  田中智子

一一・九

23

同  松葉茂

四・二〇

24

亡  松本トキノ

二〇

一万二七九四円

25

原告 宮崎和子

二三

一万五五八一円

26

同  宮地豊子

二三

一万五六二六円

27

同  宮地ツマノ

三万円

二〇

一万六三一六円

28

同  宮地久子

五万円

二三

一一八〇円

29

同  村上シカエ

二三

二六万二八八九円

30

亡  村上ノブエ

弔慰金

七万円

二三

31

原告 山下一

見舞金

五万円

一〇

32

同  荒井タカエ

一三

33

同  岡野一子

三万円

一一・二一

四万〇七四二円

34

同  岡野恵美子

五万円

四・二六

六万〇八五一円

35

同  岡野五郎

二六

二万六二〇二円

36

同  岡野サワエ

二五

37

同  岡野セツ子

二六

六二一六円

38

同  岡野孝子

二五

39

同  岡野チヨコ

二五

一四三〇円

40

亡  岡野ハナ子

弔慰金

七万円

二五

41

原告 岡野万亀子

見舞金

五万円

二五

42

同  岡野ヤエコ

一三

三五〇円

43

亡  村上金四郎

二五

44

同  村上常春

一〇

45

原告 阿部ノブエ

二三

九万七六一三円

46

同  石原猛

一七

47

同  岡野トシエ

三万円

二三

五四三三円

48

同  串野二三子

五万円

一七

三九二六円

49

亡  小池律

一七

50

原告 新川マサ子

一七

一二万七〇九九円

51

亡  竹田高一

一三

52

原告 竹田ウメノ

一三

53

同  三保谷ツルエ

三万円

一一・九

54

同  村上政一

五万円

四・一七

55

同  守本サトエ

三万円

一七

56

同  坂井キク

五万円

一八

五二九四円

57

同  田川クラノ

一八

58

同  楢原末蔵

一八

59

同  野上一三

一八

60

亡  原千壽夫

一八

61

原告 秀岡盛藏

二五

一七万〇六四三円

62

同  森アイコ

一八

七七四九円

63

同  山本アサノ

一八

64

同  上田サトコ

一〇

二万三七九〇円

65

亡  畑岡真之助

弔慰金

七万円

一〇

66

原告 畑中トヨノ

見舞金

五万円

一〇

67

同  波戸岡義明

二六

九一四五円

68

同  有助ナルミ

一〇

69

同  打明とも江

一〇

70

同  大橋ハナコ

一〇

一万〇六八七円

71

同  川原シノブ

一〇

二〇八五円

72

亡  小倉國太郎

弔慰金

七万円

一一・二一

73

同  小倉コサダ

見舞金

五万円

二一

74

原告 三田董枝

四・一〇

75

同  友成栄市

一〇

76

亡  野坂トシコ

弔慰金

七万円

一一・二一

77

同  濱本アヤメ

四・一〇

78

原告 平岡松市

見舞金

三万円

一〇

一万五六六六円

79

同  馬越フミヨ

五万円

一〇

80

同  松葉タカエ

一一・二一

81

同  向井信夫

三万円

四・一〇

82

亡  栁本キヌヨ

弔慰金

七万円

一〇

83

原告 村上ヤスコ

見舞金

五万円

一〇

見舞金 七五名分 三五五万円

弔慰金 八名分 五六万円

合計  八三名分 四一一万円

医療費  三二名

一二〇万七六二六円

(別紙)

一覧表三 「医療機関による結核診断」

患者

番号

氏名

診断名

診断時期(昭和)

医療機関名

1

原告 花岡峰義

左膝関節結核

四六年三月末ころ

因島病院

2

同  村上シズヱ

両膝結核性関節炎

四五年三月下旬ころ

岡山市民病院

3

同  大出茂則

右肩関節結核

四七年五月下旬ころ

尾道総合病院

4

同  柏原忠男

左膝関節結核

四五年九月ころ

三原赤十字医院

同年一二月上旬過ぎ

村上病院

5

同  酒井和行

両肩関節結核

結核性髄膜炎

同年一一月中旬過ぎ

因島病院

四六年五月初旬

村上病院

6

同  須山保樹

右肩関節結核

四五年一二月ころ

因島病院

四六年二月上旬ころ

村上病院

7

同  杉本町子

左膝関節結核

四五年八月下旬ころ

因島病院、

三原赤十字病院

8

同  大黒イサミ

右肩関節結核

同年五月下旬ころ

村上病院

9

同  大黒イマコ

左手関節結核

同年八月ころ

右同

右肘関節結核

同年九月末過ぎ

10

同   大黒道子

左肩関節結核

四六年六月ころ

右同

11

同  楢原忠勝

左肘関節結核

四五年六月ころ

笠井外科病院

左足関節結核

12

亡  麓マツエ

左肩関節結核

四六年一月ころ

因島病院

左膝・両肩関節結核

同年二月初旬過ぎ

三原赤十字病院

13

原告 川本勝

右膝関節結核

四五年二月上旬過ぎ

岡山大学付属病院

同年四月中旬ころ

因島病院

右肩関節結核

同年七月下旬ころ

右同

14

亡  宮地マツコ

右膝関節結核

四六年八月ころ

国立呉病院

15

原告 宮地八重子

左股関節結核

四七年一月下旬ころ

三原赤十字病院

同年七月下旬過ぎ

因島病院

16

亡  松原勇

左肩結核性関節炎

四五年三月一〇日過ぎ

因島病院

結核性腹膜炎

同年三月上旬ころ

杉本医院

17

原告 上野スエ子

両膝関節結核

同年一二月ころ

因島病院

18

亡  大立ミヤ子

左膝関節結核

同年五月ころ

右同

19

原告 小林スズエ

右膝関節結核

四七年二月上旬ころ

右同

20

同  郷原サワエ

右足関節結核

四五年八月ころ

尾道総合病院

21

同  田頭カナヨ

右足関節結核

粟粒結核

同年三月下旬ころ

因島病院

22

同  田中智子

左膝関節結核

四六年二月中旬ころ

板阪整形外科医院

左膝結核性滑膜のう炎

同月下旬過ぎ

国立岡山病院

23

原告 松葉茂

左膝関節結核

四七年四月初旬ころ

因島病院

24

亡  松本トキノ

右手関節結核

四五年七月ころ

右同

両膝関節結核

同年一〇月ころ

肺結核

同年四月ころ

杉本医院

25

原告 宮崎和子

右肩胛骨カリエス

四六年一月ころ

村上病院

26

同  宮地豊子

左膝関節結核

同年二月過ぎ

右同

27

同  宮地ツマノ

左膝結核性関節炎

四五年一〇月下旬過ぎ

右同

28

同  宮地久子

左膝関節結核

同年八月初旬ころ

因島病院

29

同  村上シカエ

両膝関節結核

同年九月下旬ころ

右同

肺結核

同年八月初旬ころ

杉本病院

30

亡  村上ノブヱ

左膝結核性関節炎

同年一月中旬ころ

因島病院

31

原告 山下一

右肩関節結核

四六年四月初旬ころ

尾道総合病院

32

同  荒井タカエ

右肘関節部潰瘍(結核性)

四五年六月中旬ころ

因島病院

右肘関節結核

同年七月中旬過ぎ

寺岡整形外科病院

33

同  岡野一子

左膝関節結核

四八年一〇月ころ

村上病院

34

原告 岡野恵美子

両膝関節結核

四五年三月上旬過ぎ

因島病院、

三原赤十字病院

35

同  岡野五郎

両膝関節結核

四六年三月下旬ころ

右同

36

同  岡野サワエ

右膝関節結核

四五年九月中旬ころ

村上病院

同年一〇月下旬過ぎ

岡山大学付属病院

37

同  岡野セツ子

右足・右膝関節結核

四六年三月末ころ

三原赤十字病院

38

同  岡野孝子

左膝結核性関節炎

四五年二月ころ

因島病院

39

同  岡野チヨコ

左手関節結核

同年八月ころ

村上病院

40

亡  岡野ハナ子

左手・左肩関節結核

同月上旬ころ

三原赤十字病院

41

原告 岡野万亀子

右膝関節結核

同年一一月ころ

因島病院

42

同  岡野ヤエコ

左膝関節結核

四四年一月中旬ころ

寺岡整形外科病院

右足関節結核

四七年一月初旬ころ

因島病院

43

亡  村上金四郎

両膝結核性関節炎

四五年九月上旬ころ

右同

肺結核

同年六月初め

44

同  村上常春

右膝・両手関節結核

同年九月下旬ころ

尾道総合病院

肺結核

45

原告 阿部ノブヱ

両肩関節結核

四六年六月下旬ころ

水島第一病院

46

同  石原猛

左膝関節結核

四五年二月末ころ

寺岡整形外科病院

47

同  岡野トシエ

右股関節結核(可能性)

四六年四月ころ

因島病院

48

同  串野二三子

右肩関節結核

四六年一〇月ころ

三原赤十字病院

49

亡  小池律

右拇指・中足指関節結核

同年二月中旬ころ

川崎病院

50

原告 新川マサ子

右足ショパール

四四年八月過ぎ

寺岡整形外科病院

左膝関節結核

右坐骨恥骨結核

51

亡  竹田高一

右肩・左肘関節結核

四六年五月初旬ころ

尾道総合病院

52

原告 竹田ウメノ

両膝関節結核

四五年一月ころ

尾道総合病院

53

同  三保谷ツルエ

左肩関節結核

同年一〇月ころ

右同

粟粒結核

同年五月上旬過ぎ

結核性髄膜炎

54

同  村上政一

左肩関節結核

四六年五月中旬ころ

因島病院

肺結核

同年四月初旬ころ

55

同  守本サトヱ

左膝関節結核

四五年七月下旬ころ

右同

56

同  坂井キク

右膝関節結核

四六年六月中旬ころ

三原赤十字病院

同年九月下旬過ぎ

因島病院

57

同  田川クラノ

右膝関節結核

同年三月中旬ころ

三原赤十字病院

同年七月中旬過ぎ

因島病院

58

同  楢原末蔵

右膝関節結核

四五年五月初旬ころ

寺岡整形外科病院

59

同  野上一三

右肩関節結核

四六年九月初旬ころ

三原赤十字病院

60

亡  原千壽夫

右膝関節結核

四五年一二月下旬ころ

因島病院

61

原告 秀岡盛藏

両膝結核性関節炎

同年九月中旬ころ

右同

肺結核

62

同  森アイコ

左膝関節結核

同年一二月ころ

三原赤十字病院

四六年一〇月過ぎ

因島病院

63

同  山本アサノ

右肩関節結核

同年四月初旬ころ

寺岡整形外科病院

64

同  上田サトコ

左膝関節結核

四五年一月中旬過ぎ

国立広島病院

肺結核

65

亡  畑岡真之助

左膝関節結核

四六年五月末過ぎ

右同

右上腕骨々頭カリエス

肺結核

66

原告 畑中トヨノ

右肘関節結核

四五年七月下旬ころ

寺岡整形外科病院

67

同  波戸岡義明

右膝結核性関節炎

同年三月下旬ころ

村上病院

68

同  有助ナルミ

右膝関節結核

同年八月ころ

尾道総合病院

同年一〇月下旬過ぎ

国立広島病院

粟粒結核

同年八月ころ

尾道総合病院

69

原告 打明とも江

右膝関節結核

同年一〇月初旬ころ

寺岡整形外科病院

同年一二月中旬過ぎ

国立広島病院

左膝関節結核

同月中旬過ぎ

右同

70

同  大橋ハナコ

左膝関節結核

四六年八月ころ

土肥病院

四七年一月過ぎ

三原神経科病院

肺結核

土肥病院

71

同  川原シノブ

右膝関節結核

四五年六月下旬ころ

三原赤十字病院

72

亡  小倉國太郎

右肩関節結核

四六年八月ころ

三原赤十字病院

肺結核

同月ころ

糸崎病院

73

同  小倉コサダ

結核性右膝関節炎

中国中央病院

肺結核

四六年八月上旬ころ

74

原告 三田董枝

左膝関節結核

同年四月下旬過ぎ

三原赤十字病院

75

同  友成栄市

右膝関節結核

同年八月上旬過ぎ

尾道総合病院

76

亡  野坂トシコ

左膝関節結核

同年五、六月ころ

県立広島病院

結核性脳膜炎

77

同  濵本アヤメ

左膝関節結核

同年六月下旬ころ

三原赤十字病院

78

原告 平岡松市

左膝関節結核

同年一月中旬ころ

右同

79

同  馬越フミヨ

右肩関節結核

同年四月中旬ころ

尾道総合病院

80

同  松葉タカエ

右膝関節結核

同月ころ

岡山大学付属病院

81

同  向井信夫

両肩結核性関節炎

四五年一〇月末ころ

尾道総合病院

82

亡  栁本キヌヨ

両膝関節結核

同年一一月上旬過ぎ

右同

肺結核

83

原告 村上ヤスコ

左膝関節結核

四六年五月下旬ころ

右同

(別紙)

一覧表九 「奥医院通院治療及び発病時期・部位別状況」

患者

番号

氏名

結核医療開始

年 月 日

(昭和年・月・日)

病状悪化時期

(昭和年・月)

奥医院

骨関節結核

発病部位

通院期間

(昭和年・月)

関節注

射部位

1

原告 花岡峰義

四六・三・三一

四五・一一

四四・一一―四五・一〇

両膝

右足

左膝

2

同  村上シズヱ

四五・三・二五

四四・一二

四三・六―四五・二

両膝

両膝

3

同  大出茂則

四七・五・一二

四七・五以前

四五・二―四五・七

右肩

右肩

4

同  柏原忠男

四五・一〇・二一

四五・八

四五・三―四五・八

左膝

左膝

5

同  酒井和行

四六・六・一

四五・一一

四二・二―四五・五

両肩

両肩

6

同  須山保樹

四六・二・一二

四五・一二以前

四五・五―四五・六

右肩

右肩

7

同  杉本町子

四五・九・二二

四五・四

四四・四―四四・六

四五・四

左膝

左膝

8

同  大黒イサミ

四五・五・一五

四五・五

四五・一―四五・四

右肩

右肩

9

同  大黒イマコ

四五・八・一一

四五・八

四四・六―四四・八

四五・一―四五・三

左手

右肘

左手

右肘

10

同  大黒道子

四六・七・九

四五・二

四三・七―四四・七

四五・二―四五・四

左肩

右薬指

左肩

11

同  楢原忠勝

四六・二・一八

四四・一一

四四・四―四四・一二

左足

左肘

左足

左肘

12

亡  麓マツエ

四五・一二・一

四六・一

四三・三―四五・八

両膝

両肩

左膝

両肩

13

原告 川本勝

四五・四・一三

四四・一二

四四・一―四四・一二

右膝

右肩

右膝

右肩

14

亡  宮地マツコ

四六・九・二一

四五・一〇

四二・―四五・一〇

両膝

両肩

右膝

15

原告 宮地八重子

四七・一・二一

四六・一〇

四四・七―四五・一

左股

左股

16

亡  松原勇

四六・三・一〇

四五・三

四四・二―四五・二

両肩

左肩

17

原告 上野スエ子

四七・四・一

四五・二

四四・七―四五・八

両膝

両膝

18

亡  大立ミヤ子

四五・八・一一

四四・一二

四四・八―四四・一二

左膝

左膝

19

原告 小林スズエ

四七・二・一〇

四五・三

四四・五―四五・六

右膝

右膝

20

同  郷原サワエ

四五・六・二三

四五・三

四五・一―四五・三

右足

右足

21

同  田頭カナヨ

四六・三・一

四五・三

四四・五―四四・一二

両膝

両足

両拇指

右腕

右足

22

同  田中智子

四五・八

四五・七―四五・八

左膝

左膝

23

同  松葉茂

四七・四・一〇

四五・一〇

四四・七―四五・一一

左膝

左膝

24

亡  松本トキノ

四五・一二・一

四五・四

四三・一二―四五・四

両膝

右手

両膝

右手

25

原告 宮崎和子

四六・一・一六

四五・五

四五・三―四五・四

右肩

右肩

26

同  宮地豊子

四六・三・一

四六・三以前

四四・一一―四四・一二

左膝

左膝

27

同  宮地ツマノ

四五・九・二二

四五・六

四四・五―四四・一二

四五・六―四五・七

両膝

左足

左肘

左拇指

左膝

28

同  宮地久子

四五・八・二二

四五・六

四五・二―四五・六

左膝

左膝

29

同  村上シカエ

四六・三・一

四五・五

四五・三―四五・七

両膝

両膝

30

亡  村上ノブヱ

四五・一・一三

四四・一一

四四・三―四四・一二

両膝

右腕

左膝

31

原告 山下一

四六・四・七

四六・三以前

四一・夏―四五・五

右肩

右肩

32

同  荒井タカエ

四五・五・二五

四五・四

四四・一一―四五・五

右肩

右肘

右膝

右肘

33

同  岡野一子

四八・一〇・一

四四・一一

四四・五―四四・一二

左膝

左膝

34

同  岡野恵美子

四六・三・一五

四五・三

四四・一一―四五・四

両膝

右足

左肘

両膝

35

同  岡野五郎

四六・三・二二

四五・七

四五・二―四五・七

両膝

両膝

36

同  岡野サワエ

四五・九・二二

四五・四

四二・六―四五・四

右膝

右膝

37

同  岡野セツ子

四六・四・一

四五・二

四四・一二―四五・三

右足

右膝

右足

右膝

38

同  岡野孝子

四五・四・一二

四四・一二

四四・一一―四四・一二

左膝

左膝

39

同  岡野チヨコ

四五・八・一

四五・一

四三・七―四四・九

四四・一二―四五・一

両拇指

左中指

左腕

左手

40

亡  岡野ハナ子

四五・八・六

四五・七

四四・一一―四五・七

手首

左手

左肩

41

原告 岡野万亀子

四五・一一・一二

四五・七

四五・五

右膝

右膝

42

同  岡野ヤエコ

四四・一・一二

四三・一〇

四七・一以前

四三・八―四三・一〇

四五・三―四五・六

左膝

右足

左膝

右足

43

亡  村上金四郎

四五・九・一

四五・四

四三・秋―四五・春

両膝

両膝

44

同  村上常春

四六・一・二八

四五・七

四五・四―四五・七

右膝

右膝

両手

45

原告 阿部ノブヱ

四六・七・三

四五・七

四五・二―四五・一一

右肩

両肩

46

同  石原猛

四五・一・二八

四四・一二

四四・九―四四・一二

左膝

左膝

48

同  串野二三子

四六・一〇・一二

四六・四

四五・六―四五・一一

右肩

右肩

49

亡  小池律

四六・一・二一

四五・七

四五・三―四五・八

右拇指

右拇指

中足指

50

原告 新川マサ子

四五・八・三

四五・五以前

四四・二―四四・七

両膝

右足ショパール

左膝

右座骨恥骨

51

亡  竹田高一

四六・四・一五

四五・五

四二―四五・五

右肩

左肘

右肩

左肘

52

原告 竹田ウメノ

四五・一・九

四四・一一

四三―四四・一〇

両膝

両膝

53

同  三保谷ツルエ

四六・九・一

四五・四

四五・一―四五・三

両肩

左肩

54

同  村上政一

四六・六・一〇

四五・七

四五・二―四五・七

左肩

左肩

55

同  守本サトヱ

四五・一〇・二一

四五・五

四三・七―四五・七

両肩

両膝

右拇指

左膝

56

同  坂井キク

四六・六・二四

四五・一二

四四・七―四五・九

右膝

右膝

57

同  田川クラノ

四六・三・九

四五・七

四四・九―四五・九

両膝

左足

右膝

58

同  楢原末蔵

四五・八・一一

四五・四

四四・一〇―四五・四

右膝

右膝

59

同  野上一三

四六・九・一〇

四六・七

四五・六―四五・一一

右肩

右肩

60

亡  原千壽夫

四六・一・二三

四五・一一

四五・四―四五・八

右膝

右膝

61

原告 秀岡盛藏

四五・九・一四

四五・一

四四・三―四五・七

両膝

両膝

62

同  森アイコ

四六・一・一〇

四五・五

四四・一二―四五・五

左膝

左膝

63

山本アサノ

四六・四・一三

四五・九

四四・二―四五・八

右肩

右肩

64

同  上田サトコ

四五・五・五

四四・一一

四四・九―四四・一一

左膝

左膝

65

亡  畑岡真之助

四六・一〇・一

四五・一〇

四五・一―四五・一〇

左膝

右肩

左膝

右肩

66

原告 畑中トヨノ

四五・七・二八

四五・五以前

四四・一二―四五・五

右肘

右肩

右肘

67

同  波戸岡義明

四五・一四・一一

四五・三

四四・九―四四・一〇

右膝

右膝

68

同  有助ナルミ

四五・九・八

四五・七

四五・六

両膝

右膝

69

同  打明とも江

四五・一〇・二

四五・九

四四・八―四五・七

両膝

両膝

70

同  大橋ハナコ

四六・八・二八

四五・六

四四・九―四四・一〇

左膝

左膝

71

同  川原シノブ

四五・六・二五

四五・六

四五・四―四五・五

右膝

右膝

72

亡  小倉國太郎

四六・八

四五・三―四五・六

右肩

右肩

73

同  小倉コサダ

四五・七

四五・二―四五・七

両膝

右膝

74

原告 三田董枝

四六・四・二二

四五・八

四五・七―四五・八

左膝

左膝

75

同  友成栄市

四六・八・二四

四五・一一

四五・一―四五・一一

両膝

右膝

76

亡  野坂トシコ

四五・一一

四五・七―四五・九

左膝

左膝

77

同  濵本アヤメ

四六・六・二三

四六・一

四五・九

両膝

左膝

78

原告 平岡松市

四六・二・一

四五・秋

四五・四

左膝

左膝

79

同  馬越フミヨ

四六・四・二

四六・三

四五・三―四五・五

右肩

右肩

80

同  松葉タカエ

四五・五

四四・四―四五・六

右膝

右膝

81

同  向井信夫

四五・一〇・二七

四五・五

四五・三―四五・五

両肩

両肩

82

亡  栁本キヌヨ

四五・一一・六

四五・九

四五・八―四五・九

両膝

両膝

83

原告 村上ヤスコ

四六・五・一三

四五・五

四四・一〇―四五・五

左膝

左膝

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例